最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

裏返った時に憎しみになるような生き方はいけない

裏返った時に憎しみになるような生き方はいけない。

私は、韓国朝鮮人を批判することがあるが、これは彼らほど情に頼る民族はいないからである。

情にほだされてコロッと態度が変わる。

具体例を挙げると、たとえば、彼らには司法は運用できないだろうし、基礎科学も発展することはない。

しかし、彼は心底自分たちは正直にやっていると信じている。

哀れだと思うのは、彼らには理をみて長い目で自省する視点がなくそのうえ忍耐力が欠如していることなのだ。

感情に訴えることが最も信心信仰から遠のく生き方である。

昨日の投稿にも関連するが、私がこうやって弱点を指摘したとしても今の彼らには理解自体ができないだろう。

 

受けた恩は忘れてはいけないが、その逆はすぐに忘れてしまった方がいい。

日本には痛手を受けても憎しみを長く抱え込まずに水に流すという精神文化がある。

その代わりに次に備えるために入念な準備を怠らない。

これが有難いのだ。

こういう生き方をしていれば、辛い出来事によってもし幸せの前提が崩れた場合でも、憎しみに変わりにくくなるからだ。

 

おもしろさなどはいらないといっても過言ではない。

大切なのは物事に対する真摯さだけである。

ここに気付くだけでもずいぶんと落ち着いて人付き合いも出来るようになるはずだ。

自分の性格に悩む必要がなくなるからだ。

相手に好かれるとか嫌われるとかそういう感情的な部分に対する囚われがなくなってくる。

それよりも自他にとっても最も善いことに関心がいくようになってくる。

こういう生き方をしている人は、一時的には嫌われることがあるかもしれないが、あとからゆっくり信用がついてくる。

 

死後のことはいつも考えておこう。

死はひとつの変化にすぎない。

死が終わりだと思うと、いろいろせこくなってくる。

今ある自分しかない。

今ある自分から一歩踏み出すしかないのだ。

しかし、その一歩を正しく踏み出せば神仏の加護がある。