最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

私の瞑想活用法

外で仕事をして帰宅したあとなかなか気持ちが切り替わらないことがあるだろう。

疲れで動けないという感覚だ。

一種の危機だ。

休むかということにもなる。

しかし、疲労感があったら動けないというのでは、おそらく時間切れでお終いになる。

こういう場合、瞑想は効く。

これは密かに実践している人はいるように思える。

瞑想をすると勉強で頭に入ってこないということがなくなる。

 

疲れというのは大方ストレスだ。

人から受けたプレッシャーは緊張として残りやすいものだ。

運動でその緊張を緩和する方法はポピュラーだし効果は絶大だ。

しかし、運動が疲労を呼び込むこともまた事実である。

若い人は問題は少ないが、40代後半からは工夫が必須になってくる。

その工夫が瞑想というわけである。

 

私の瞑想はただのマインドフルネスではない。

いわゆる単純な呼吸瞑想も悪くはないが、これはむしろ難しいのではないか。

最近はやはり読経で得たものを柱としていく。

ピシッとした意識にすぐに入ることができる。

そこに呼吸をあわせて流れる思念を静かに観察していくことで平安を得る。

すっと目をあけるとだいたい25分くらい経っている。

そこからすぐ勉強などにとりかかるのだ。

 

ともあれ、完全な状態というものにはとらわれないことに尽きる。

できることをしっかりやる。

これだけでよいではないかという諦めが大切だ。

これだけを間違えないようにするために日々の読経なり掃除片付けなりの精進がある。

そして、できたことに感謝し満足をしていく。味わう。

これからの時代は危機の連続に対応していかなければいけない。

状況がよくなってからとりかかろうというマインドは捨てた方がいいだろう。

手負いでも今に強く踏み込むべきだ。

大切なことは結果ではないのだ。

 

 

激動に対応し切る

市民マラソン10キロにエントリーしている。

11月の中旬にある。

10月の下旬くらいからやっと10キロ程度のジョギングができるようになってきた。

やっと水分補給が必要ないくらいの涼しさを感じながら走れる時期になった。

気象のことは仕方ないのだ。

いちいち暑いと言ったところでどうしようもない。

猛暑で準備期間が短くなるのならば短い距離のレースにエントリーすればよいだけのことだ。

フルだのハーフだのというのは一種の思い込みということにして、出来る時に出来るだけやりそこに満足していくことが大切だろう。

この手の整理はこのブログで自分が自分で書いてきた事の応用にすぎない。

そう、うちの子の中学校の陸上部の練習時間は今30分である。

30分。

こんなんで何が出来るのだろうかと一瞬思うわけだけど、今は教師の働き方改革だのいろいろ大人の事情もある。

可哀そうだなとこれも一瞬思うわけであるけれども、30分ですむなら自宅の勉強時間がしっかり確保できるわけで見方をかえればメリットもある。

とくにうちの子はレースで勝つための陸上というより体力強化のための陸上なので、むしろ時代を味方につけていくことも可能だ。

 

時世。

自公が過半数を割った。

このブログでは昔から玉木雄一郎を評価しているが、ますます支持したい。

東大卒の正しい姿を玉木雄一郎にみる。

財務省の改革は大蔵省出身の玉木雄一郎にしかできないだろう。

またアメリカの大統領選も近い。

このブログはどちらかというとトランプ寄りである。

アメリカは大きな病にかかっているといっても過言ではない。

本音と建て前は日本以上に乖離しているようにみえる。

今のアメリカの自由や正義は大方嘘であることはもうばれている。

ばれているのにメディアパフォーマンスが続くのは嘘を必要とする勢力がいて彼らに金の力があるからだろう。

私はそういう見方をしている。

昔ながらのアメリカの文化に誇りを抱いているアメリカ人にエールを送りたい。

トランプが彼らを代表するかぎりで私はトランプ寄りである。

自由、基本的人権、民主主義の命を取り戻して欲しい。

 

世界はさらにばらけていく。

様々な前提が失われていく。

常に自分のことは自分でやっていく必要に迫れていくだろう。

そういうなかで己の気分に殺さずに正気を保って生きていくためには、その時その時一刻一刻を今まで以上に大切に生きていかねばいけない。

雑でざっくりとした人間は苦しむ時代になる。

逆に常に繊細な感謝を抱ける人間にとっては宝の山のような時代になるということもできるかもしれない。

日本人は得意なはずなのだ。

そうやって常に時代に合わせて生きてきたのだから。

日本は必ずうまくいく。

 

 

 

闇の中で太陽の如く輝く

地球のあり様に急激な変化があるのだから過去の経験はもう参考にならない。

これくらいの心持ちでいた方がいいように感じる。

暑さや寒さが肉体に与える刺激を軽く見積もっているとずれが大きくなる。

本当の現実はすでに肌で感じ取ることができるはずである。

もう変わったのだ。

経済も文化もそして農業や漁業といったものもそれらの根底的な変化がそろそろみえてくるだろう。

人間の行動など本当は単純なものである。

突然の食糧難がきたときの諸外国の政治的な動きに皆同様に落胆するだろう。

約束が破られた!と。

国同士の約束は絶対に破られることになる。

気が狂いそうになるようなニュースや言論がこの世を覆い、美辞麗句で気取っていた者から怒り狂い、奪い合いの事件で多くの人が地獄に落ちる。

 

この程度の闇といえるほどに修練を積むなら今しかない。

一食一食を大事に。

自分にとっての必要量を正確に把握することだ。

肉体に必要な栄養がいきわたるような食事をとるべきである。

高級か否かではない。

栄養があるかどうかである。

そして、その栄養を血肉にするための鍛錬を意志の力をもってする。

だるかろうがやるのだ。

肉体を鍛えることはそのまま心を調律することである。

暑さや寒さにも慎重に対応したい。

手洗いうがいも大切になってくる。

すでに戦場にあるとの思いで日々に仕事をする。

金を稼げ。金は弾薬と思えばいい。

休むことなど考えている暇はない。

24時間働く気概をもつからこそ、その功徳をもって安眠を得ることができるのだ。

この境地にあっては安眠ももはや仕事のうちである。

前にも書いたかもしれにが、枕元には何か武具をおいておくべきだろう。

冗談ではない。

私は常にベルトをおいてある。

もはや経済だけが戦いではない。本来の意味での戦いにも備えるべきだ。

 

目の前に現れた課題の克服のみに集中する。

ここからは乱れた時代にとらわれてはいけない。

しっかりと自ら精査した伝統や社会規範は使える限り使っていくべきだ。

混乱して自暴自棄になってはいけない。

日々の瞑想は必須であろう。

瞑想なくしてこの集中なしである。

ぼんやりと優しい気持ちになることではこの時代の難局は乗り越えらえない。

有害な人間とは縁を切れ。

簡単にそういう者達の理解者になるな。

つまり、有害な人間からの様々な言葉や態度を絶対に受け取ってはいけない。

これは己の信念を全面的に開示していくことで達成できる。

もう遊んでいてはいけない。

遊んでいるだけの時間もないはずである。

 

生き切った先の意識の先には続きがある。

そこで会える者同士が親友である。

今は孤独でもいいだろう。

 

 

 

 

究極の美に向けて

歳を重ねて、肉体から霊性へという流れになっていく。

その過程でこそ、肉体を鍛え労わる。つまり感謝。

無駄のないように。真に自分らしく。

霊性が心にしっかりとした形を与えていく。

 

肉体の視力などに全面的に頼らずに。

正念による、徳積による感覚に拠るようにしていく。

神々が神々しい装いのままということは思い込みであろう。

汚いもののなかから道を見出していくことがむしろ大切だ。

そうだ。

戦場においてこそだ。

 

明確な目的をもちそして朗らかに楽しく強く生きる。

これに尽きるだろう。

人生はプロセスに意味がある。

喜怒哀楽それぞれのなかから中道を見出し魂を磨いていくのだ。

転ばぬことより転んだ先だ。

 

肉体を鍛えれば心も鍛えられる。

このブログのスピリチュアルはぼんやりしないところに特徴があるだろう。

もっともっと明確に自分のあり方をありありとイメージすることが大切だ。

他の思惑にくすぐられるような柔い精神力では足りないのだ。

根性論、本当はとても大切である。

 

歳を重ねれば重ねるほど強くなっていく。

よくなっていく。

こういう行き方も確かにある。

今日なすべきことは絶対になす。

このような迫力をもっていくことが浄めでもある。

集中していこう。

刻まれたなかに霊性の輝きがある。

 

 

 

 

 

私のルーティーンの見取り図

朝起きたらまず命に感謝する。

何よりはやく仏前にお水をお供えする。

そして読経をする。

読経をした後に身支度をし一日をはじめる。

自分を法の上におかない。

仕事等で時間がない日は寝具だけは整えて家をでる。

時間がある時は掃除機をかけたり水回りの掃除をする。

 

おおよそ以上のことをやれば人の道を踏み外すことはない。

 

休みの日は靴を磨く。

布団を干す。

窓を拭く。

草取りをする等。

普段できないことをやる。

相当な余裕が生じるのを感じるだろう。

極楽の感覚といってもよいと思う。

突き詰めていくと、それらをすることで緊張を緩める事が出来る。

緊張が緩むとアイデアも生じやすい。

このサイクルを強めていくことが休日の目的である。

 

休日に歓楽にふけると追い込まれていく。

一時の興奮ほど恐ろしいものはない。

カルマの関係で止められないときもあるだろうが、踏ん張り続けた方がいい。

読経と出来る限りの掃除からはじめていく。

汚い窓ガラスを思い浮かべてみよう。

まずは一部だけ磨き切るのだ。

少しでも見通せるようになれば、カルマの解消の道がみえてくる。

 

以上を善なる因縁勢力の核としていく。

神々や有徳の先祖靈等の支援を得つつ、世俗の事柄に集中していく。

世俗の事柄はすべて己の魂を育てるためにあると思惟していく。

その思惟のうちにあることが教えに生きるということだ。

教えに生きるとは四無量心。

そこに至ってはじめて本物の集中力を手にすることができるはずである。

今私はそこを目指している。

 

 

立ち上がっていく

少しだけれども、風の中に秋の気配がでてきた。

ジョギングは夕方5時からしている。

小さな小さな忍辱行ではないかと思う。

つまり、暑さに耐えるというやつだ。

人はいじめてはいけない。

ならば自分もいじめていはいけない。

こういう理由から常に適度なトレーニングになるようにする必要があるが、そろそろ酷暑のなかにもハイシーズンの入り口が見えてきた。

 

1年ぶりにランニングシューズを買う。

このところ陸上部にはいった子供のための買い物ばかりで自分のものはほとんど買っていなかったが、自分のシューズの踵のアウトソールの一部が寿命となっていたので、久々という感じである。(フォームが悪くなってしまったか)

ランニングシューズも3割くらい高くなった。

一昔前は7000円くらい出せば十分なものが買えたが、今は10000円は出さないと満足できるものは手に入らない。

しかも主流の厚底系は寿命もやや短いように感じる。

加齢とともに薄底でアスファルトを走ることにはやはりリスクが出てくる。

そこで今はニューバランスFuelCell Propel というシリーズを使っている。

使用感には満足しているが、同ハンゾーシリーズやアシックスのライトレーサーに比べると設計に頑丈さがないかな。

 

懸垂チャレンジも再開している。

瞑想に力を入れた分だけ筋トレから離れていた。

離れていること自体は頭の隅に引っかかっているのでいつかいつかと思いつつやれない日々が続いていたが、やっと体がついてきたという感じである(笑。

これから10年の活動指針のなかにはもちろん筋トレは入っている。

瞑想も健康的な筋肉があってこそではないだろうか。

 

私はたぶん健康オタクである(笑。

先日ついに50歳になった。

40代は後悔なし。

やるべきことはやってきたと思っている。

ここからである。

ここからの一人となっていきたい。

 

 

 

性エネルギーは四無量心へ

慈悲喜捨の四無量心。

つまるところ性エネルギーはこの4つの心の醸成に使用したい。

その心を金剛不壊となるよう鍛えていく。

 

怒りはすべての善根を焼き尽くす。

それくらいにカルマを生み出す。

他に向けるものであっても自己に向けるものであっても心すべきであろう。

叱るべきときはよく落ち着き言葉と時と場を選ばねばいけない。

ただし、恐れてはいけない。

 

活かし切っていくことが生きるということだ。

それはよく言われることであるが、実際己と向き合う楽しみはこれ最高である。

 

日々己のカルマと向き合うことになる。

理不尽と感じた時こそカルマが解消されるチャンスなのだ。

この感覚に仏法をあわせるときひとつ次元を超えた幸せを得る。

まずはひとつふたつを極めていくという感じであろうか。

私は10年以上の不飲酒戒、読経修行と掃除でこの境地を得た。

他の道もあろう。

ともあれ、私もまだまだ途上である。

 

今日一日をよく祈って生きる。

これを目指す場合、自灯明法灯明のうちに密教的に人格ある師との絆を意識できたほうがうまくいくかもしれない。

私は原始仏教的なややもすれば殺伐とした行き方を試したこともあるが、大乗仏教的な救済を中心とする温かい行き方にまたシンパシーを感じつつある。

冷たくされたら温かさで返す。

要するにこれを継続していくことなのだ。

継続しやすい行き方がよい。

この世の大衆の大半の苦しみが怨憎会苦(会いたくない人に会う)であろうけれども、これを乗り越えるということである。

かつて私もおののいた。

しかし、日々の(簡単な)修練によってですら、心底にまったく揺るぐことのない何かがあるようになって以来、仏道の片りんを確かに感じ得るようになってきた。

 

四無量心。

その通りであろう。

本当によくできた整理である。