最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

全身全霊に向けて

全身全霊ということを今生で一度は体験したい。

今それを目指して生活している。

これ以上はできないというところまでの努力だ。

おそらく極めるとはそういうことだろう。

戒を持し三昧を得ていく道である。

その道において俗事を聖なるものにしていくのだ。

 

よくも悪くも恒常性というものがある。

どこで安定するかということだ。

これは自分が決めていくしかない。

変わるときはどうしたって苦しい。

どっちに行くかだ。

地獄の苦しみか、修行の苦しみか。

 

肉体は頼りに出来ないと思う。

魂にフィードバックされていくものを主にしていくべきだろう。

他からの称賛は全く不要である。

それよりも己自身に嘘をつけないことを恐れるべきである。

 

なんための修行なのか。

理不尽を聖なる行にするためである。

魂に消えぬ光を得るためである。

これは今しかできないことではないだろうか。

日曜日を週のはじめにすべし

今日からネット掲示板をのぞくことを完全にやめようと決心したところである。

陸上やウエイト関係には未練が若干があるが、それもやめることにしたい。

瞑想という観点からすると文字霊的なものが蟻の一穴となることを避けたい。

地獄の火口でわざわざ遊ぶ必要はない。

 

さて、今日確信したことである。

それは日曜日を週の始めとすべしということだ。

日曜日の夜が憂鬱になる理由は月曜日に対する準備不足にある。

ラソンなどでは前日に少し走って足に刺激を入れるのだが、それと同じである。

日曜日に少し刺激を入れておくのだ。

 

土曜日ゆっくりして日曜日からとりかかる。

このパターンの方がうまくいくだろう。

 

月曜日に障るかもしれないから日曜日には身体を動かすことは控えようと考えることが罠であった。

運動をするならば日曜日が一番良い。

寝つきもよくなり月曜日の朝がむしろ爽快になる。

また、日曜に月曜以降の仕事の見通しをつけておくことはストレス管理になるだろう。

 

生きる意欲が弱っている人は心の火力が足りていない。

この火力は運動することで大きくすることができる。

そして日曜日に運動するということが大切だ。

世の中にはフルマラソンを走った翌日から仕事をしている人はたくさんいる。

 

心が防御に入ると人はどうしても弱ってしまう。

これは私も同じである。

まずは運動して心を換気して課題に直面できるだけの心の火力を生み出すことだ。

火力が十分になってこればささいな出来事はささいなままとなる。

大きな文脈を通して教えの真意にも触れることができるようになる。

 

日曜日に休んではいけない。

 

食を節制していく

買い物をしていて思うこと。

本当の生活費は幾らぐらいなのだろうか。

私が必要だと考えている食品は、納豆と卵である。

あとは海苔とゴマか。

これがないと頭が働かない気がするからだ。

あとは野菜であるが、これはかなりもらいものがある。

ちなみに、豆関連で言うと油揚げは優秀だと密かに思っている。

というのも、精進潔斎のときのみそ汁を円やかにしてくれるのは油揚げであったからだ(笑。

牛乳は賛否あるけれども、私は優秀な食品だと考えている。

あとは私の場合はコーヒーくらいだろうか。

味噌や醤油油等の調味料を別にすれば、食費がそれほど高額になるとは思えない。

 

中山きんに君の動画をちょくちょくみる。

彼はまさに目的のために食も節制している。

鶏肉と野菜セットをメインにして状況に応じてサプリメントで補充したりPFCバランスを調整している。

それをずっと続けているところが凄い。

普通は3か月もすれば飽きてきてしまうものだからだ。

飽きるどころか飲み込めなく者も出てくるかもしれない。

 

ともあれ、食の節制は感謝を基礎に据える必要がある。

感謝が基礎にあれば、暴飲暴食はなくなるからだ。

お釈迦様も食については王子だった故に出家直後はいろいろ躊躇されたようだが、感謝をもって頂くようになってからは食に困ることはなくなったということだ。

私を含め飽食になれた現代人は今こそ追体験していくべきであろう。

 

なお、この夏はとても大きな自然災害が起こる気がしてならない。

驚くほど直ちに流通は止まりスーパーは空になってしまう。

結論から言うとタンパク質の確保が難しくなる(炭水化物や脂質はおそらく不足しない。)

プロテインは今のうちに準備しておくべだと思う。

ソイとホエイ両方買っておいた方がいい。

私曰く、災害用プロテインである。

私が商品開発者ならこの分野をきめ細やかに開拓する。

 

心をおさめていくことに通じていく

今週は週5でジョグに出た。

そして、読書量も大幅に増やしている。

再び学びの期間に突入したという感覚である。

3合目から上へ目指さねばいけない。

内なる力が蘇ってきた感じがある。

 

ブログを読み返してみると、今やっていることはその通りである。

ただ書くこと先行しがちになってはいけない。

やはり行いが先である。

 

ジョグが思ったよりできている。

老化であろうかとあきらめていた節があったけれども、欲をかかずに走り出したところうまくいっている。

うまくいっていない時にもあきらめずにいたことはよかった。

運動に関しては実感として3週間程度のオフはむしろプラスだと思う。

身体と心は回復しているときにいろいろ学ぶ。

昨年は月間走行距離が30キロくらいにまで落ち込んだこともあったけれども、たとえ週1のジョギングでも未来には繋がるということだろう。

 

活力を正しいことのために用いる。

これが性エネルギー昇華であった。

お釈迦様は言われる。

正しいことは成し難いと。

しかしだからこそ、やっていく価値がある。

怠らず努め励む。

 

とにかく心をおさめていくことだ。

心が怒りや憎しみといったものと共にあるならばこれは修行とは関係がない。

怒りや憎しみは家に入った蛇を狩り出すような真剣さをもって排除せねばいけない。

それが己を守るということである。

では、なぜ怒りや憎しみが心から追い出せないのだろうか。

これは答えは一つである。

迷いがあるからだ。

この迷いが不安を生み出し不安が疑心を生み出す。

疑心による自己犠牲が最も愚かである。

優しいが、それは己の自我を満たすためにする行為であるからだ。

だから悔しくて泣くのである。

必要なことは優しさと強さである。

強さは信心信仰によって養っていくことができる。

肉体の鍛錬とは関係がない。

進化を続けるために

新しいこととは本質に近づくということだ。

本質から離れようとすることは放逸になるということだ。

それは新しいことではない。

 

ブッダの真理の言葉感興の言葉は今の私に大きなインパクトを与えた。

そして、しばらく言葉を使うことができなくなり瞑想の状態に入ることになった。

そこにただ教えがある。

これを規範と呼ぼうが法と呼ぼうがそれはたんなる呼称の問題にすぎない。

責任を持たねばならないのは、それに己の生を包摂する段階である。

そこに生じる智慧こそが、生を豊かにする。

私は私の人生を生き切っているだろうか。

あらためて問い直す契機となった。

 

やることは変えないし変えていない。

しかし、今はもっとそれを極めていきたいと熱望している。

夜中にトイレのために目を覚ましてぼんやりしているときに自分自身の生がいかに脆弱なものであるかを感じることがある。

肉体というものは思う様にはならぬものだし心の力みからくる気迫も衰えやすいものである。

行き方はそうではない。

しっかり帰依していく生き方こそが恐れを除いていく唯一の道なのだ。

 

大乗の教えは包摂の体系であると私は考えるに至った。

密教などは特にそうではないだろうか。

人々が法に生きた証そのものではないかと私は考えるようになった。

法に基づいて最後の最後まで生き抜いた人々がいる。

だからこそ教えは語り続けることができるのである。

 

肉体の終わりは必ず来る。

一刻も無駄には出来ないという緊張した現実を直視すべきだろう。

しかし、魂の進化はこれからもずっと続くのである。

肉体を中心にした構えは隙が大きすぎる。

肉体が終わりを迎えようとした時に魂に力が漲っているような生き方にしていかねばいけない。

これが教えに生きるということの本当の功徳の正体ではないかと私は思う。

恨みや憎しみだけではない。

死を乗り越えていくのだ。

 

 

激動の時代だからこそ心を守る

仏典では教えの功徳は汲んでも汲んでも尽きないものと表現されることがある。

故にどの教団でも法要においては常に威儀を正す。

それを何百年と繰り返す。

荘厳行ということなのだろう。

凡夫には耳にタコであるに違いない。

また同じ話かということになる。

しかし、そうではないということである。

 

疲れが見えるようではやはりどこか自我で引っ張っているところがある。

そこを見極めてそのしこりを外していくことが修行である。

法によるということは自分を磨き正しいことわりに整えていくことだ。

そうすることでしか教えの功徳に触れることはできない。

 

心を守る。

この一言に尽きるものを今の私は感じている。

教えはそのための至高の智慧である。

心を守るために智慧をもって戦うのだ。

その意味で人生は常に能動的なものになっていく。

戒を保つことにはそのまま教えに生きることだ。

性エネルギー昇華はしていかねばならぬもの

心に注意しながら暮らしている。

電話を受ける時も次の作業に移る時も心の動きに注意している。

怒ってよいのは教えを守る時だけだ。

それ以外はもう泡沫の話であるという思いである。

 

仏典は毎日触れているが、読めていると思っているところが読めていないことがある。

ある日突然閃いて意味が繋がるのである。

これはやはり魂の成長に合わせて教えに基づく認識力が拡がるのであろう。

あきらめてはいけないということは言えるのだと思う。

分からないということはあまりたいした問題ではないのかもしれない。

確かに聴法の因縁勢力により了解する時は来る。

欠かさず続けていることで私は一切後悔していない。

 

性エネルギー昇華の実践は心をおさめるという観点からはすべきことである。

放逸にフラフラすることが増えればヒビ割れることは間違いないなしだ。

若い頃ほど苦痛でないのが少しさみしいくらいである(笑。

とはいえ、事の性質の問題として真剣白刃の思いを持っていかねばいけない時期にさしかかっている。

肉か霊かという岐路の選択だからである。

ただの我慢ではない。

 

先日托鉢をしていた真言の僧侶が武漢コロナで死んだというネットニュースをみた。

40代で出家して大都会で立ち続けた方であったとのこと。

祈るというただ一つに全集中する。

ただ祈るだけという言う者は浅はかであるとしか言いようがない。

大都会で立ち続けただただ一人で祈るのだ。

やらねば分からぬことだろう。

私は生き切った姿に感動した。

 

誰しもが本当は心の奥底では憧れている仏道である。

私も憧れているのだ。