最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

響け!私のコスモ!

私自身激闘しつつ書き始めたブログである。

方針は変わっていないのではないかと思っている。

というのも、仏法が下敷きにあるから。

とはいえ、表向きの教団としての教えというものに対しては、私は実体験から様々小さな反抗は起こしてきた。

その感覚は今でも変わらない。

神社参拝をはじめて己の場を発見して以降は、宗教というものの向き合い方が自分らしくなった。

私はおそらく今後も特定の宗派に属するということはない。

性エネルギー昇華と原始仏教的な教えと神社参拝の三本柱でいくことになる。

 

おそらく言葉によって社会に貢献する時代はもう終わる。

私が励行していることをひとつ紹介しよう。

それは、車の運転で横から入って来る車を入れてあげることである。

この譲り合いはパッと明るくなる。

私は非常にこの実践を気に入っている。

 

人生は自分として生きることに意味があり学びがある。

与えられた命を全力で輝かせる。

これに尽きるだろう。

言葉より色合いだ。

美しい色合いとなるように努力すべき時代になってきた。

 

頼る心が鈍らせる

左派も試した。保守(っぽい)も試した。

我々はもうだいたいみてきたといっていい。

人間、経験しないと納得できない。

しかし、一度経験したならば、そこから学び、修正すべき点は修正する勇気を持つ必要がある。

 

左派がダメだったのは、敵性のある帰化日本人や外国人による憲法ルートを使った侵略に対してあまりにも無防備であったことだ。

いいようにやられた。メディアや大学を占拠されてきた。

しかし、左派の主張が、祖国を思う素直な気持ちから出てくるようなるならば、支持する人は増えるように思う。

参政党などはその徴表の感じるところだ。

今後、グローバリズムにおける金持ちか庶民かという視点は、ますます重要になる。

権力に対する監視も大切である。

 

保守がダメなのは、結局、油断して、国家主義に行きつく点だ。結果として、要らぬ規制を増やし、増税の根拠を作る。

守られるのは公務員の組織だけというような有様になっていくことは目に見えている。

法律レベルでの検討をせずに、いきなり憲法改正して緊急事態条項を入れようとしている政治家の姿勢には、胡散臭さを感じる。

公務員が自由にやりたいだけなのではないだろうか。

歴史や伝統を重んじるふりをして、皇室の伝統を守るふりをして、国民主権を尊重するふりをして、自由主義や民主主義といった基礎的な価値を踏みにじり国民の福利をが害する。

保守といったが、大半は偽保守だろう。

(自民党はやはり保守政党ではない。)

保守の政治家の数はもっと少ないと私は思っている。

 

我々はどうしたらいいのか。

政府に頼る姿勢を改めることだと思う。

何かあれば政府のせいにする。

これをやめること。

歴史的な伝統を守りたいならば自由権の行使として堂々とやっていく。

自律していくことだ。

何が政府の役割なのか、そういう行き方からあらためて削り出していく必要があると思われる。

 

暗黒の時代に向けての心構え

私の現在の到達点を少しまとめておこう。

 

一瞬でも損得勘定に意識を奪われると敵ができてしまう。

境界線を引けと言われる。

もちろん引いてよい。

しかし、引くこと自体が敵の認識となるようでは本末転倒である。

できるかぎり自分の問題として統合解消していくことだ。

闇と向き合い味わうことから逃げてはいけない。

ただただ、この理不尽よって自分の魂が奥底から磨かれつつあるとみていくことだ。

物理的な攻撃でもない限り、平穏を優先だ。

言葉がどうした。

そんなものに心に攪乱されているようではまだ基本ができていない。

なめられてカッとなる。

これは最悪の反応だ。

釈尊は、罵詈雑言を受け取らなかった。

放っておいたのだ。

これが究極の護身術であろう、

この行き方がある。

 

いいものを身につけたりして僅かであっても富をアピールすることはやめた方がいい。

これは要らぬ嫉妬を買うし、諸々勘違いする元となる。

これからの時代、犯罪にもあいやすくなる。

清潔であることだけを心掛けよう。

なお、知恵深さが滲み出ることがはよいことである。

 

最低でも60歳までは筋肉を鍛えておく。

物理攻撃に対しては防御能力を持たねばいけない。

防御能力は実は寛容さと深く関連する。

ただし、物理攻撃を加えられたということは、その因果を猛省する必要がある。

反撃はしない方がいい。

恨みをもってもいけない。

謝罪すべき点があるならば毒を吐く意味でしておいた方がいい。

 

節制と瞑想は必須である。

欲望にだらしなくなれば瞑想はできない。

ランニングはそれをうまく架橋してくれる。

座る瞑想より走る瞑想のほうがいい時期がある。

やってみれば理解できるはずである。

ランニングを瞑想としてやっている人はあまりいないだろうが。

 

学問。それ以外。行動。

リベラルデモクラシーがここまで追い込まれたことで人類の哲学の到達点に異変が起きつつある。

AIは文系を求めている。

性エネルギー昇華に成功した者が何かしらの言葉をあてていくだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

一刻一刻が修練

自分自身の業、いや家族親族の業、地域の業、日本の業、いや世界の業。

結局、己をどれだけ整えようとも、現象としては、世界の業には巻き込まれてしまう。

先々のことはもはや神々に任せていく他ない。

地球外生命体もたぶん存在するでしょうな。

 

ともあれ、己ができることをする。

霊性を高める努力をしていく。

やはりこれが一番大切だ。

コツコツと。結局、一つ一つを丁寧に進めていく他ない。

急いでも仕方ない。

目の前のことに取り組んでいく。

善因を積む。

しかし結果はどう出るか分からない。

分からないということを完全に消化していけるほどに今に打ち込んでいく。

今。過去も未来も今だ。

うまくいっても調子に乗らず、うまくいかなくても表情に陰りないように。

ここは修練していくのだ。

修練していかねば変われない。

 

光が増せば闇も深まることをしっかり観察して、闇もまた己に統合していくこと。

多くの人がここをすっ飛ばしている。

否定するな。闇もまた菩提の向上の礎なのだ。

逃げるな。

闇の痛みこそしっかり味わっていく。

そのうえで出来るところから修練していく。

こここそ勇気だ。

勇気が大切だ。

 

 

 

静寂の中に猛々しく

神宮参拝も100回は超えたんじゃないかと思う。

今ではまさに行きたくなる場所。

輝きと温もりに浴しながら女神様に泣きごとも吐露し感謝する場所。

一方、仏法は不飲酒戒を中心に朝夕と読経を欠かさず続けること10数年。

こちらは場を問わず内省を可能にする。

空と妙有。

苦しいことがあってもその心を切り替えていく速度は格段に向上した。

秋ごろから風呂場で毎日冷水を浴びている。

心身と祈りが溶け合う一点を極めたい。

人生最終章に向けてまさに昂めている。

孤高の男

ギリシャのスパルタの男は還暦まで兵役の義務があると聞いた。

60歳まで鍛えていたということだ。

自分は70歳越えを目標にしているが、まあ、60歳までは本当に現実的な目標だ。

やれると思うし、やらなければいけない。

この時代だ。鍛錬はもはや軍事訓練と認識していきたい。

 

体力があるということは時間があるということだろう。

自分は酒も飲まないし、夜は9時半ごろには寝るようにしている。

健康を楽しんでいる。

ゴルフとかそういう趣味はないけれども、満ちているな。

鍛えて体調を整えて仕事をする。

読経をして瞑想をして神社を参拝して魂を込めていく。

活動と休息が時間的余裕のあるなかでサイクルすることは快適だ。

これ以上幸せな生き方はあるだろうか。

自画自賛ではないが、自分には勝者であることの実感が常にある。

 

ただ、肉体は必ず朽ちるものである。

最近はそれが故の仏教だろうと確信しているのだ。

古賢は力を求めなかった。

歳を重ねてこそなるほどと思うのだ。

なぜならば、力があるときには仏教は不要だからだ。

力が失われていくときこそ人は大きく悩むのだ。

そのときこそ仏道に自分自身がなければ崩壊していくしかない。

 

これからの健康は奥深い。

時間を大切にしたい。

最後の最後は鍛え上がった霊体が残るようにせねば。

 

掃除は万能薬

年末だからとあまり意識しないようにしているけれども、掃除はいい。

万能薬みたい。

自分が神社に参拝するようになったのは、あの場の清浄さに惹かれるから。

朝と夜の読経を欠かさずにもう十数年やっているけれども、言葉による感銘力というものには限界があるのではないかとある時期から感じるようになっていた。

一方、掃除をしているときは穢れから離れつつある実感がまず間違いなく生じる。

そしてその実感は神社の清浄さと非常に似通っているのだ。

日本の仏教は人が魔と対峙するための技術みたいなところがあるけれども、その技術のバリエーションについてオタクになっていくよりも、毎日掃除をしたほうが修行になるし神々のご加護も得やすいのではないだろうか。

今の時代、何が利他なのか分かりにくいところがある。

仏法を伝えること自体が利他だとも言い得るが、宗教の布教は布教している者の足元次第である。

現状、嘘つきが多すぎることが宗教に対する不信となっている。

掃除だけは確実である。

人の役にも立つ。誰も文句は言わない。

功徳を積める。