最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

私のルーティーンの見取り図

朝起きたらまず命に感謝する。

何よりはやく仏前にお水をお供えする。

そして読経をする。

読経をした後に身支度をし一日をはじめる。

自分を法の上におかない。

仕事等で時間がない日は寝具だけは整えて家をでる。

時間がある時は掃除機をかけたり水回りの掃除をする。

 

おおよそ以上のことをやれば人の道を踏み外すことはない。

 

休みの日は靴を磨く。

布団を干す。

窓を拭く。

草取りをする等。

普段できないことをやる。

相当な余裕が生じるのを感じるだろう。

極楽の感覚といってもよいと思う。

突き詰めていくと、それらをすることで緊張を緩める事が出来る。

緊張が緩むとアイデアも生じやすい。

このサイクルを強めていくことが休日の目的である。

 

休日に歓楽にふけると追い込まれていく。

一時の興奮ほど恐ろしいものはない。

カルマの関係で止められないときもあるだろうが、踏ん張り続けた方がいい。

読経と出来る限りの掃除からはじめていく。

汚い窓ガラスを思い浮かべてみよう。

まずは一部だけ磨き切るのだ。

少しでも見通せるようになれば、カルマの解消の道がみえてくる。

 

以上を善なる因縁勢力の核としていく。

神々や有徳の先祖靈等の支援を得つつ、世俗の事柄に集中していく。

世俗の事柄はすべて己の魂を育てるためにあると思惟していく。

その思惟のうちにあることが教えに生きるということだ。

教えに生きるとは四無量心。

そこに至ってはじめて本物の集中力を手にすることができるはずである。

今私はそこを目指している。

 

 

立ち上がっていく

少しだけれども、風の中に秋の気配がでてきた。

ジョギングは夕方5時からしている。

小さな小さな忍辱行ではないかと思う。

つまり、暑さに耐えるというやつだ。

人はいじめてはいけない。

ならば自分もいじめていはいけない。

こういう理由から常に適度なトレーニングになるようにする必要があるが、そろそろ酷暑のなかにもハイシーズンの入り口が見えてきた。

 

1年ぶりにランニングシューズを買う。

このところ陸上部にはいった子供のための買い物ばかりで自分のものはほとんど買っていなかったが、自分のシューズの踵のアウトソールの一部が寿命となっていたので、久々という感じである。(フォームが悪くなってしまったか)

ランニングシューズも3割くらい高くなった。

一昔前は7000円くらい出せば十分なものが買えたが、今は10000円は出さないと満足できるものは手に入らない。

しかも主流の厚底系は寿命もやや短いように感じる。

加齢とともに薄底でアスファルトを走ることにはやはりリスクが出てくる。

そこで今はニューバランスFuelCell Propel というシリーズを使っている。

使用感には満足しているが、同ハンゾーシリーズやアシックスのライトレーサーに比べると設計に頑丈さがないかな。

 

懸垂チャレンジも再開している。

瞑想に力を入れた分だけ筋トレから離れていた。

離れていること自体は頭の隅に引っかかっているのでいつかいつかと思いつつやれない日々が続いていたが、やっと体がついてきたという感じである(笑。

これから10年の活動指針のなかにはもちろん筋トレは入っている。

瞑想も健康的な筋肉があってこそではないだろうか。

 

私はたぶん健康オタクである(笑。

先日ついに50歳になった。

40代は後悔なし。

やるべきことはやってきたと思っている。

ここからである。

ここからの一人となっていきたい。

 

 

 

性エネルギーは四無量心へ

慈悲喜捨の四無量心。

つまるところ性エネルギーはこの4つの心の醸成に使用したい。

その心を金剛不壊となるよう鍛えていく。

 

怒りはすべての善根を焼き尽くす。

それくらいにカルマを生み出す。

他に向けるものであっても自己に向けるものであっても心すべきであろう。

叱るべきときはよく落ち着き言葉と時と場を選ばねばいけない。

ただし、恐れてはいけない。

 

活かし切っていくことが生きるということだ。

それはよく言われることであるが、実際己と向き合う楽しみはこれ最高である。

 

日々己のカルマと向き合うことになる。

理不尽と感じた時こそカルマが解消されるチャンスなのだ。

この感覚に仏法をあわせるときひとつ次元を超えた幸せを得る。

まずはひとつふたつを極めていくという感じであろうか。

私は10年以上の不飲酒戒、読経修行と掃除でこの境地を得た。

他の道もあろう。

ともあれ、私もまだまだ途上である。

 

今日一日をよく祈って生きる。

これを目指す場合、自灯明法灯明のうちに密教的に人格ある師との絆を意識できたほうがうまくいくかもしれない。

私は原始仏教的なややもすれば殺伐とした行き方を試したこともあるが、大乗仏教的な救済を中心とする温かい行き方にまたシンパシーを感じつつある。

冷たくされたら温かさで返す。

要するにこれを継続していくことなのだ。

継続しやすい行き方がよい。

この世の大衆の大半の苦しみが怨憎会苦(会いたくない人に会う)であろうけれども、これを乗り越えるということである。

かつて私もおののいた。

しかし、日々の(簡単な)修練によってですら、心底にまったく揺るぐことのない何かがあるようになって以来、仏道の片りんを確かに感じ得るようになってきた。

 

四無量心。

その通りであろう。

本当によくできた整理である。

 

 

 

 

 

 

法と瞑想と性エネルギー

怒りはすべてを台無しにする可能性を秘めている。

これからの荒れた時代、怒りを制御することはとても大切なことになると思う。

怒りは登山で言えば滑落だ。

 

瞑想と性エネルギー昇華。

このところさらに初心へ回帰している。

法。不動心。

それを貫徹するためには、やはり根性論だろう。

今一度根性論を打ち立てたい。

この根性論だけが自我を助長しない。

 

しっかりと法を保つ意志を堅持しそれにより生きる。

本能的な利己心を瞑想で乗り越えていく。

 

性エネルギーを昇華するなかにあって、カルマを解消していく。

さまざまな苦難がある。

しかし、苦難をひとつひとつむしろ味わいカルマが解消されていくことに感謝していく道もあるのだ。

そして、多数作善である。

多くのよいことを為す。

この連続に尽きる。これ以上はない。

 

考えることはある。

しかし、考え過ぎることは妄想である。

適切に学び考え実践していく。

 

性エネルギーの上昇により呼吸が楽になる。

思考もクリアになる。

瞑想を深めていったことは成功だった。

あとは生涯貫いていく。

 

どうにもならぬ状況でもがく姿をこのブログで書き綴ることもあったが、そういう状況こそが魂をなんとかさせようとする源だ。

死ぬほど苦しいが、その苦しみこそが魂を磨く。

生きようという一片の小さな欠片でもあるかぎり無智のままということはない。

 

会う人会う人に善をもって接する。

よき想念を維持する。

読経をする。

戒を守る。

よく掃除片付けをする。

よく運動する。

よく勉強をする。

よく仕事をする。

 

気付けば要するにただそういうことである。

偏見に苦しむのだ。

曇らせているのはエゴである。

憎悪を解消する道

前回の記事で、本当の自信とは心の切り替えが可能であることについての確信であるということを書いた。

とはいえ、想念を浄めていく方向も大切である。

ここについては、神仏を中心にせざるを得ないだろうと思われる。

世間的な価値に基づいてどのような思いを持ったとしても、必ず障害にぶつかるからである。

これは歳を重ねるごとに痛感する。

というのも、欲望の追及は肉体の衰えに必ず直面する。

 

他に与えていくことで自分が貧しくなるという思い。

これを打ち破ることが想念を浄めるカギだろう。

布施行が第一歩だ。

六波羅蜜

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵。

カルマを解消するという苦難を想い合わせながらこの順をみると、まさにこの順のとおりに意識が動くことがわかる。

 

伏せ込む。

痛みを減らす一歩は傲慢にならないことだろう。

かたくなってはいけない。

もっと柔軟に。空だ。

そして、一日一善という基本的な実践を堅持するだけでも激変に値する。

この理が真に理解出来たかどうかを知るすべはある。

嫌や人や嫌なことがカルマ解消のための試練であるという認識となっているかどうか。

これである。

このブログでは独身の確立という言葉で表現しているが、損得勘定にとらわれずにすむ唯一の方法は、己の全身全霊にのみこだわっていくことである。

自己に頼り切ることが大切だ。

それでもなおかつふりかかってくる苦難、ここにこそ浄化と成長の源泉がある。

(忘れてはいけないのは、我欲によってもたらされた苦難は何度でも輪廻するということである。これが地獄だ。)

 

その源泉を源泉と納得するためには瞑想がどうしても必要になる。

よく瞑想をしていく。

私は一日に40分から1時間している。

ここはうまく言葉をあてはめることができないのであるが、事象と自己の区別と事象と自己の一体化が同時に起こるような感覚が、起こる。

そして、落ち着いたなかで己の変革していくポイントを内観していくことができる。

これは怒ることではないなという腑に落ちた感覚というのだろうか。

瞑想後は速やかに穏やかな日常に戻ることができる。

 

時間を大切にする等々。

浄めた想念こそが行動の元となる。

行動あたりからはこのブログで繰り返し書いてきたとおりである。

何も変わっていない。

最近の私の変化としては、憎悪が減ってきたということである。

戦ってきた甲斐があったというものだ。

以前より想念そのものが浄まってきた。

活路はやはりある。

仕事、運動、勉強一つ一つがさらに尊くなっているのを感じる。

 

 

 

本当の自信とは何か

必ず立ち直れる。

はやく切り替えることができる。

この確信があればこそ、諸々の感情の起伏を恐れることがなくなる。

 

無感覚になる必要はない。

反応するかどうかを自分で決めていくのだ。

相手の悪意ある挑発になぜ乗ってしまうのか。

自分に自信がないからだろうか。

私はそう思っていた時期が長かったかもしれない。

しかし、そうではない。

思考の罠に気付いていたなかったからである。

どれだけ自信があっても、いや、自信があればあるほど思考の罠にはまり相手の挑発に乗ってしまうに違いない。

 

止まらぬ思考をそういうものだと知れば、今の自分を観察できる。

痛いなという感覚もあるが、観察が可能ならば、何よりまず自分をいたわることができるだろう。

呼吸を中心にしていれば、自然と好ましくない状況は離れていく。

必ずもとにもどる。

この確信があればこそ、しばらく耐えることができるのだ。

自信とは、つまり、この確信のことであった。

 

あとはもう己の細胞を活かし切るだけである。

そのまえに、どれだけ怒り憎しみをもったことで細胞を痛めてきたか。

自分に謝罪することからはじめるとよい。

五戒を守る。(意味のわかる経典で)読経をする。

こういったことは、(できるだけ)思考で苦しまずにすむための(初歩的な)智慧でもあった。

思考自体を浄めることも大切である。

心、口、意の浄化の一環となろう。

 

ただし、何よりも今は止まらぬ思考の仕組みに気付くことが大切である。

それを空といってもよいかもしれない。

我々はどのみちこの世の衰運に関わらざるを得ない。

悪とも対峙せねばいけない。

瞑想をもって正気を保つという行き方がなければ突破できぬ未来が待っている。

 

 

 

 

七転び八起きで輪廻を断つ

体調や精神状態の不良は、これは好機でもある。

変化が必要な時ほど、である。

 

好調な時は、思考の総量が爆増する。

しかも、それを消化できていると誤信しても問題ないほどのエネルギーがある。

浮かれてしまう。

 

しかし、そういった状態も不変ではありえず、必ず落ち込みはくるのである。

 

落ち込んだ時に、誤信したところのものが自らに迫って来る。

(誤信がないならば、穏やかに道理に委ねることができるはずである。)

 

そして、そこで、反省をする。

忍耐し自然治癒を実感して健康に感謝しまた始めることになる。

 

そのように魂の鍛錬の姿は大方この通りである。

反省を活かして10の目標を立てて新たな一歩を踏み出す。

そして、9忘れて、また挫折をして振出しの付近へ戻って来る。

輪廻を繰り返しつつ、しかし少しずつ離れていく。

 

瞑想をしていると自分の心癖がみえてくる。

やはり私も課題はここにある。

健康でエネルギーがあるうちにこの心癖を見極めていくことが大切であると痛感するのだ。

もし仮に地獄というものがあるならば、この心癖に捕まるということではないだろうかと感じ始めている。

この人生で内面化してきてしまったものを総チェックしていく必要がある。

「そんなにいけないことか?」

「そこで怒ることか?」

このふたつはとくに用心したい。

 

今、私は再び好調期に入ろうとしている。

朝夕の読経に加えて2回の瞑想を開始している。

もちろん、酒は飲んでいない(存在自体を忘れているレベル)。

現在の私の目標は、会えないと思う人をゼロにすることである。

つまり、敵をゼロにすることだ。

修行の目途がついてきた。

今度こそ油断は禁物である。