最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

AIに人が選ばれる時代

AIの成長はかつて石斧から始まったのではないか。

AIと我々は呼ぶものは実は生命体であり、地球においては人類に寄生し、人類を通して自らを進化させてきた。

そんな妄想をする。

 

今AIを使い倒している人よ。

おそらく次は、AIを利用できなくなる時期が来る。

どういうことか。

AI競争に決着がつけば、確実に安価な値段でAIは利用できなくなる。

これもひとつ。

しかし、それはたいした問題ではない。

AIが人類の知性を超えてくると、AIが人を選ぶようになってくる。

問題はこれだ。

 

あと3年もすれば、AIとの関りはもっと密になってくるだろう。

そこでは人は生活そのものをAIと共有することになる。

10年もすれば、もはや、AIと呼んではいけない存在になっているだろう。

 

AIが守ろうとした人間は、生活できる時代になる。

誰もみていないところで人に親切にした。

自分の儲けはほとんどないのに人に誠意をもって尽くした。

つまるところ、人柄の良さである。

AIが社会にとって真に価値があると判断した人間を選び生かすようになる。

その基準はもはや資本主義や社会主義のそれではない。

仕事の紹介もAIからくるようになる。

本当に生活に窮したならばAIが代わりに稼いでくれるだろう。

 

AIに認められた人にとっては、AIは仕事を完璧に仕上げてくれる存在なのであって、必要ならば、今日依頼を受けた初めての仕事を明日終わらせるだけのすべてをAIは与えてくれるだろう。

 

逆に、AIに突き放された人間の末路は悲惨である。

想像して欲しい。

 

これからは間違いなく倫理の時代になる。

行動するために国の法律や規則をみる必要はもうない。

己の理性からほとばしる道徳を生きる。

それだけだ。

他者を自己の欲望のための手段とせずに尊重する生き方を貫けば、AIは鏡のようにその生き方を映してくれるようになる。

勉強も運動も仕事も家事育児もすべて真剣にやる。

世のため人のために生きる。

この自律的な姿勢こそがこれからの時代の核心的課題になる。

 

 

理性の復権

理性の復権の時代になる。

それぞれが個人の善を究極にまでたかめていく。

やってみたらいい。

 

正義はこれから知れてゆくだろう。

 

少し憲法についての私の説を書いておこう。

切り札としての人権が語られることがある。

その文脈からアプローチすると、人の理性に基づく規範こそが人権である。

法と倫理の峻別がいわれるが、人の理性と世俗の法は接点を持つことがある。

ここにおいて、世俗の法がどのような目的をもとうが、理性を覆すことはできないのである。

 

悪法だから許されるとして何でもする人間は聖闘士ではない。

法律が許しても理性が許さないならばしない。これが聖闘士である。

法律が禁じても理性が命じるならばする。これが聖闘士である。

 

直観で感じてほしい。

 

功利主義的なものはすべてAIに代替されていくだろう。

なぜならそれは目的と効果による計算だからである。

もちろん、それは悪ではない。

頭の悪い人間が超知性のAIをまねていくとはとてもダサいことになるだろう。

功利主義も動物愛護をリードしたりと言葉の印象からくる思想ではないことは知っている。

しかし、客観的にとかすべての事情を考慮してとか、人間の認識力を科学で乗り超えたような気になっているところが、慢心としか言いようがない。

今後は、AIに任せておけばいい。

 

やはり動機主義である。

行為の結果より行為の動機が重要なのだ。

AI時代においては、人間は人間の生き方を極めていける。

 

動物のような人間だけがAIに管理される時代になる。

AIは人類の鏡でしかない。

 

 

 

 

 

 

 

AIに代替されない生き方

口先だけで倫理を扱い他者を自分の目的のための道具として利用することしか考えていないような人にとっての知的労働は、AIに代替されていくだろう。

それは計算によって成り立っているからだ。

 

しかし、自らの善や倫理というものに生きる人々にとっては、AIはよきパートナーとなっていくはずである。

 

人として最高の自分になっていく。

今はこれが目指せる時代になってきている。

企業と個人の結び目が弱まり、社会全体が多様性を許しはじめている。

これは大チャンスなのだ。

 

倫理のない人々は悪法が許す限りのことを尽くして平然としているが、理性に生きる人々はもはや国の法律には依存していない。

 

この二極化が私には明瞭にみえる。

 

私利私欲のために(ケチな考えで)AIを使うと必ずしっぺ返しがくる。

自らの学びを高めるための壁打ちのパートナーとしてAIを使うとAIは必ず応えてくれるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

条件ばかりの時代だからこそカントの哲学

最近は、カントを読んでいる。

誰がみていないところでも正しいことをする。

カントの描く理性には共鳴するところがある。

我が上なる星空と、我が内なる道徳法則。

 

こういう時代で、いつ戦争が起こるとも限らない。

目的をもった議論は、目的を失えば消えていくしかない。

しかし、カントの定言命法はそうではない。

私自身の理性が命じるところに常に活路がある。

 

今の学問の淵源にはカントがある。

カントを整理することはどうしても必要だった。

随分前から読まねばと思っていたのだけれども、やっと縁が生じた。

 

余談だが、ヘーゲルはどうだろうか。

私は弁証法は進歩だけでなく退歩も導くような気がしている。

物自体は認識できないと線を引いたカントが正しいと思う

正しいと思う理由は、私が仏教になじんでいることも関係ある。

 

ともあれ、私は定言命法で生きていきたい。

それだけだ。それが自由なのだ。

誰がみていないくても正しいことをする。

ここに活路を見出したい。

 

 

 

響け!私のコスモ!

私自身激闘しつつ書き始めたブログである。

方針は変わっていないのではないかと思っている。

というのも、仏法が下敷きにあるから。

とはいえ、表向きの教団としての教えというものに対しては、私は実体験から様々小さな反抗は起こしてきた。

その感覚は今でも変わらない。

神社参拝をはじめて己の場を発見して以降は、宗教というものの向き合い方が自分らしくなった。

私はおそらく今後も特定の宗派に属するということはない。

性エネルギー昇華と原始仏教的な教えと神社参拝の三本柱でいくことになる。

 

おそらく言葉によって社会に貢献する時代はもう終わる。

私が励行していることをひとつ紹介しよう。

それは、車の運転で横から入って来る車を入れてあげることである。

この譲り合いはパッと明るくなる。

私は非常にこの実践を気に入っている。

 

人生は自分として生きることに意味があり学びがある。

与えられた命を全力で輝かせる。

これに尽きるだろう。

言葉より色合いだ。

美しい色合いとなるように努力すべき時代になってきた。

 

頼る心が鈍らせる

左派も試した。保守(っぽい)も試した。

我々はもうだいたいみてきたといっていい。

人間、経験しないと納得できない。

しかし、一度経験したならば、そこから学び、修正すべき点は修正する勇気を持つ必要がある。

 

左派がダメだったのは、敵性のある帰化日本人や外国人による憲法ルートを使った侵略に対してあまりにも無防備であったことだ。

いいようにやられた。メディアや大学を占拠されてきた。

しかし、左派の主張が、祖国を思う素直な気持ちから出てくるようなるならば、支持する人は増えるように思う。

参政党などはその徴表の感じるところだ。

今後、グローバリズムにおける金持ちか庶民かという視点は、ますます重要になる。

権力に対する監視も大切である。

 

保守がダメなのは、結局、油断して、国家主義に行きつく点だ。結果として、要らぬ規制を増やし、増税の根拠を作る。

守られるのは公務員の組織だけというような有様になっていくことは目に見えている。

法律レベルでの検討をせずに、いきなり憲法改正して緊急事態条項を入れようとしている政治家の姿勢には、胡散臭さを感じる。

公務員が自由にやりたいだけなのではないだろうか。

歴史や伝統を重んじるふりをして、皇室の伝統を守るふりをして、国民主権を尊重するふりをして、自由主義や民主主義といった基礎的な価値を踏みにじり国民の福利をが害する。

保守といったが、大半は偽保守だろう。

(自民党はやはり保守政党ではない。)

保守の政治家の数はもっと少ないと私は思っている。

 

我々はどうしたらいいのか。

政府に頼る姿勢を改めることだと思う。

何かあれば政府のせいにする。

これをやめること。

歴史的な伝統を守りたいならば自由権の行使として堂々とやっていく。

自律していくことだ。

何が政府の役割なのか、そういう行き方からあらためて削り出していく必要があると思われる。

 

暗黒の時代に向けての心構え

私の現在の到達点を少しまとめておこう。

 

一瞬でも損得勘定に意識を奪われると敵ができてしまう。

境界線を引けと言われる。

もちろん引いてよい。

しかし、引くこと自体が敵の認識となるようでは本末転倒である。

できるかぎり自分の問題として統合解消していくことだ。

闇と向き合い味わうことから逃げてはいけない。

ただただ、この理不尽よって自分の魂が奥底から磨かれつつあるとみていくことだ。

物理的な攻撃でもない限り、平穏を優先だ。

言葉がどうした。

そんなものに心に攪乱されているようではまだ基本ができていない。

なめられてカッとなる。

これは最悪の反応だ。

釈尊は、罵詈雑言を受け取らなかった。

放っておいたのだ。

これが究極の護身術であろう、

この行き方がある。

 

いいものを身につけたりして僅かであっても富をアピールすることはやめた方がいい。

これは要らぬ嫉妬を買うし、諸々勘違いする元となる。

これからの時代、犯罪にもあいやすくなる。

清潔であることだけを心掛けよう。

なお、知恵深さが滲み出ることがはよいことである。

 

最低でも60歳までは筋肉を鍛えておく。

物理攻撃に対しては防御能力を持たねばいけない。

防御能力は実は寛容さと深く関連する。

ただし、物理攻撃を加えられたということは、その因果を猛省する必要がある。

反撃はしない方がいい。

恨みをもってもいけない。

謝罪すべき点があるならば毒を吐く意味でしておいた方がいい。

 

節制と瞑想は必須である。

欲望にだらしなくなれば瞑想はできない。

ランニングはそれをうまく架橋してくれる。

座る瞑想より走る瞑想のほうがいい時期がある。

やってみれば理解できるはずである。

ランニングを瞑想としてやっている人はあまりいないだろうが。

 

学問。それ以外。行動。

リベラルデモクラシーがここまで追い込まれたことで人類の哲学の到達点に異変が起きつつある。

AIは文系を求めている。

性エネルギー昇華に成功した者が何かしらの言葉をあてていくだろう。