最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

止められない思考に気付く

思考に流されるともっていかれる。

思考は玉石混交。

よい思考もあれば害ももたらすこともある。

思考は止め難い。

なぜであろうかというほど止め難い。

ボーとしているはずなのに何か思い出してくる。

一度思考を止めてみて欲しい。

あっという間に何かを思いはじめることに気付くはずだ。

 

自我とは思考のことかもしれない。

もう少し複雑なのであろうが、ざっくりと言えばそういう言い方で外れてはいないだろう。

思い返すと、どれだけその思考を真に受けて時にはしゃぎ時にわが身を痛みつけてきただろうか。

 

思考は止める事が出来ない。

しかし、真に受けることで苦しむことが多いことが分かれば、その思考というものを観察する視座を設けることで思考から少しばかり間をあけることは可能であるように思う。

瞑想において呼吸に集中し、浮かんでくる思考を否定も肯定もせずにただ観察する。

そうすると徐々に呼吸が深くなり、だんだんただ心地よくなってくる。

そこに理屈はない。

ジョギングをする。ただ、足裏に伝わるリズムと呼吸に集中すると自然と思考が薄くなって気分が明快になってくる。

そこにも理屈はない。

 

心地よさは大切だと私は感じる。

秘訣は身体の脳以外に目を向けることだと思う。

瞑想、ジョギングの他に筋トレもいいと思う。

これらをしっかりやっておくことは、思考の濁流に流されない杭を一本打ち込むことになる。

今日も誰かが思考のせいで自殺しているのだ。

もう自分はダメだとか死にたいとか、これらは思考の産物である。

脳だけになってしまった末路といってもいい。