最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

善の共振こそが幸せの場である

走り込んでいる時の心境は最高だ。

前向きで雑念にとらわれている暇すらない。

ただ決めた目標まで走る。

それだけだ。

 

人格的な磁力、もしくは波動、そういうものは確かにあるように思う。

あの人といる時はやる気が出る。

あの人といるとなぜか力が出ない。

いろいろある。

 

しかし、磁力というものは自らが発している。

相手がどうのということでは本来ない。

共振の問題である。

やる気が出るのは、双方のやる気の共振があるからである。

 

自らを整えていく。

そして、他に翻弄されないことだ。

相手にあわせて悪い意味での共振をする必要はない。

やる気のない人間が「だりー」と言う。

それが人間関係の潤滑油としてのさりげない挨拶ようなものであるならば微笑みで返せばよいが、やる気のなさが本当のものであるならば、適当に理由を作ってその場から去るべきだろう。

 

こういう関係においては仏教は役に立つ。

なぜならば、誰とでも仲良くせよとはお釈迦様は一言も言っていないからである。

むしろ、自分と同じかそれ以上の者以外とは付き合うなとまでおっしゃっている。

若い頃はこの言葉の意味に実感がわかなかったが、最近では痛いほど分かる。

 

自分の環境を嘆かない方がいい。

それは恥だ。

周囲の状況はまさに自分自身が奏でているものと共振したものであるからだ。

阿呆が多いならば、阿呆と共振している自分がいるということである。

自分の境遇には責任があるということだ。

 

定が大切なのは、この共振作用にある。

カルマに振り舞わされないことも同様である。

智慧をもって受入て正精進をもって定としてただ智慧をもって苦難を去るのを待つ。

こうすることで、次第に善なる共振作用が強くなってくるのだ。

 

これが今日の走り込みで得た直感である。