振り返ると自分も自己啓発書のようなものを読み漁っていた時代はあった。
しかし、決定的なヒントは得ずに終わったように思う。
どれも違うと感じた。
あのジャンルの本を手に取らない人の方が地力は優れているかもしれない。
自分の生き方に迷いがないならば読む必要はないからだ。
人はぶれないものに憧れる。
だからこそ、ぶれないように装うものに騙されるのだ。
生真面目を利用される。
一つの事にじっくり取り組むひとは、そこから学び出すことができるはずだと今の私は思っている。
仏典を読めば見通しがよくなるということであって、仏典自体に力がこもっているということではないのかもしれない。
教えを歩むとは、自分自身の課題に取り組むということである。
利他というものを物質的に理解しないならば、なおさらである。
ぶれないものというのは自らしっていくことである。
山あり谷ありのなかで培っていくものだ。
道を修習した先には阿耨多羅三藐三菩提が待っている。
そしてさらなるさきに常楽我浄の世界がある。
仏典にはそのように書いてある。
武漢コロナがチャンスと思えるのは、結果、要らぬ馴れ合いの時間が潰されたことにある。
飲み会などがなくなり愚痴や悪口や軽口といった口業は減っただろう。
一方で己を向き合う時間が増え内省し健康を志向する時間が増えた。
街中にジョガーが増えたことと私は関係あると思う。
それも一歩前進である。
これからの時代は玉石混交の厳しい時代がくる。
不用意に過ごせば正しく生きている者を憎らしく思ってしまうような愚を犯してしまう可能性が高まっていくだろう。
無意味な努力をして地獄を味わう者も増えるだろう。
じっくり取り組んで何があっても投げ出さない。
損切などという言葉が耳に入れば途端に自分の判断を疑うようなことになるかもしれないが、それも砥石のようなものである。
それがジョギングシューズでなくても走り出すのだ。
待っていてはいけない。
取り組んでいる仕事自体は3次元の枠から外には出られぬ性質のものである。
しかし、取り組んでいく中で培ったぶれぬものだけはそうした性質に束縛されない。
大切なことは、ただ今ある状況を魂の限りをもって活用し尽くすことである。
そこから得た智慧が宝なのだ。快適に走ることが宝なのではない。
そのうえで仏典に親しむならば自らの生に見通しをもっていくことができる。