最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

集中力の聖域を作る祈り方

神々と言っても神と呼んでも神仏と表現しても、このあたりはもうどうでもよい。

各自のステージによるだけのことである。

 

ただ、いろいろな人をみてきたけれども、自尊心という防御はか弱い。

貧乏な人ほどむしろ尊大な態度をとったりするが、弱い。

ただの孤独である。

こういくぞ!と心の決めたところに謙虚さがあったほうが間違いなく強さが伴う。

高ぶる自尊心は見通しを悪くする。

感受性を弱めるし、知能も低くする。

 

尊い存在と共にあると感じながら生活することが最もよい。

何が起きてもまず祈りに入る。

その祈りのなかで炊かれた火こそが自らをしっかり照らしだしていく。

よくみていくことができるようになる。

自灯明法灯明とあるが、その通りであるが、共にあるものがあってもそれは全うできることである。

ここは苦行の放棄であってよいように感じ始めている。

これは自力だけでもなく他力ということでもない。

 

何があっても今日という1日を集中力をもって生きることが大切である。

本気で生きようと思うからこそ何度も何度も崩壊の危機と対峙していく。

そのたびに感覚には頼ってはいられない体験をしていく。

まさに真っ黒、真っ白という体験である。

そんなときに、祈りの一言をもっているか否かが命綱ではないだろうか。

私はこの頃、そう感じ始めている。

 

心に小さくとも聖域をもつことが要である。

みずからの修行にみずからが救われていく経験をする。

その積み重ねが祈りの言葉を強くしていく。

読経修行は続けておくべきだ。

私は巡ってきたものに救われた経験を幾度となくしている。