最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

浅いこととの決別

命をかけてそれを己の表現として踏み出していく。

これを今年からの定としていく。

 

年始から様々なことが起きている。

私の予想では、この世はこのまま何事もなく進んでいく。

天災、人災はいつの時代にもある。

とり立てて騒ぎたい人もどの時代にもいるのだ。

 

ただし、やはり善を行ない難い時代に向かっていることは間違いない。

というのも、善とは何かという大きな問いが人々の内側から湧き上がりつつあるのを強く感じるからだ。

行いと思いの距離が思いの外大きくなってきた。

良い人は増えているかもしれない。

しかし、口を閉ざす人もまた増えている。

迷い始めているということだろう。

損をするのではないか、と。

 

自分はこういう行き方をしているのだということを示していくこと。

これには勇気が要る。

その勇気は利用されて捨てられる可能性もある。

しかし、世に出てはじめて宝となることも一方では事実であり、ひとりで満足しているだけでは、いずれは何もなく枯れてしまうはずである。

 

これは思いをぶつけていくということとは違う。

たとえるならば、殴られても殴った相手の心を観察する力を持つということである。

他のいきった感情と踊ることなく、己の信念のままに生きるということである。

 

かなり難しい生き方であるように思う。

鈍いこととは違うからだ。

鈍くてマイペースという人はままあるが、そういうことではない。

よく観察しよく感じ、それでもなお己の霊性のままでいるということだ。

臆病から来る卑劣さと対峙したときに、怒ることなく霊性のままに祈り行動することは難しい。

たいていの人はそこで怒ってしまう。

 

時事を踏まえつつ、光となっていこう。

それが修行を活かして生きるということだ。