最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

如来我とは正しい行いのことである

自分のしてきたことにすがる。

確かにそれが道を誤らせることもある。

しかし、一方で、その実績が守りとなることがある。

それに賭けることもひとつの選択だろう。

 

何が実績になっていくのか。

このあたりの判断はとても難しい。

ただ、はっきり言えることは、ただ単に思っていたことや考えていたことは必ず移ろい忘れてしまう。

最終的にはなんの足しにもならない。

やったことのみが残る。

したがってやってから反省するのがよい。

 

読経も心ここにあらずという時もある。

しかし、それでもやってきていることはやはり確実な守りになっている。

基礎中の基礎がそこには書かれていて、それを暗唱することができても必ず文字に目を落とす。

法灯明といったとき、今の私の原点はそこにある。

 

そして自灯明である。

これは心にあるものではないと私は感じ始めている。

心にあるものは自我でしかない。

いかに心に法を念じたとしてもそれは自我である。

では如来我とは何か。

それは正しい行い自体に宿るのだろうと私は思う。

実績に宿るのだ。

読経中心あらずであったとしてもやはりやった方がいい。

やること自体が修行でありそれが自灯明に通じるのだ。

 

五戒は正しい行いを示している。

不作為も行為である。

これを守ることが如来我への第一歩である。

 

仏教というものはいかに研究しようとも行いがないのであれば体解できない仕組みになっている。

これは出家しようが住職であろうが例外はない。

袈裟の迫力に恐れおののく必要はなく、戒を守らぬ僧は僧ではないということである。

日本仏教が衰退するのは道理であるのかもしれない。