宗教教団というのは、とりあえず学校のようなものと考えた方がいいかもしれない。
教団に属さなくても修行はできるはずなのである。
河口慧海氏の在家仏教は、既成仏教を批判する中で修行の基本を示しているが、是非一読すべきだ。
修行は結局、自分自身ですべきものなのである。
この基本は不変である。
ただし、とここは正確にこの接続詞を使って続ける必要がある。
少し前の記事でも書いた記憶があるが、霊的環境というものがどうしてもある。
ここは自らの体験を根拠にする以外に言いようがないのであるが、よい場面について言い換えるならば、自分自身を常に外護してくれている存在というものは確かにある。
ここに向けて感謝していくときに自分自身の修行がしやすくなるという因果関係は、絶対にある。
もし優れた教団があるならば、そこに属することは確実に利益になるだろう。
そこに属するとは、つまり、よい師につくということである。
とはいえ、師についたとしても五戒をはじめ教えを保つのは自分自身である。
しかし、多くの信者は師を礼賛することに傾注するばかりで家のことを怠り家族を蔑ろにしがちである。
まったく逆の方向に走ってしまうのである。
そして、教団もそこを薄々分かっていながら、そこだけは各自の私的なことと切り離す傾向がみられることである。
ハッキリ言って、それは修行とは何も関係ないのである。
師の教えというものを実生活に荘厳し幸福になることが修行である。
密教ならばこれである。
師に対する敬意は足元の生活から整えていくことであるにも関わらず、多くの信者はこれをせずに師に引き込まれるだけで信心が一向に具体的にならずとどまってしまう。
これでは人気講師にただ群がる万年予備校生と同じである。
これではいけない。
本則ではないからだ。
この手の信者は平気で酒を飲みながら教えを語る。
師との触れ合いは結局修行と修行の触れ合いということになる。
言葉(理屈)の触れ合いではない。
ここが学問との違いである。
たとえば、前にダライラマ14世が、もし今の教義より優れた真理が発見されたならばすぐ改宗すると言っていたが、そういう潔さは、言葉にとらわれていては生じない。
経験から言えば、自分の修行の線が立ったならば、一度それで貫いてみるということが大切だ。
いつまでも師に引き込まれているだけではいけない。
自分の一生がかかっているのである。
自分の線がうまくいかなれば修正をする。
そして、その時にこそ師の修行を追体験するようにしていくことが有益である。
学びが必ずある。
師に引き込まれて恐縮するばかりでは修行にはならない。
自分の生を満喫するつもりで堂々と進む。
やんちゃな言い方をあえてすれば、宗教教団は利用するために存在するのである。
利用されるために自分があるのではない。
信仰上の感謝というものは、世間の感謝とは違うのだ。
それは行いを通してのみ知ることが出来る。
仏様は、自分の近くにいる人しか救わない。
これが能動的に修行する最大の理由である。
師が求めていることは感情的な情愛ではなく、端的に修行である。
修行が成った者から救われているのである。