教えの世界では深い祈りがあればよい。
キャリアは関係ない。
プライドは最大の妨げである。
限界だと感じさせてくるものが自我であるとしることはとても大切である。
南無の境涯、帰命の境涯。
そこに向けて祈ることが本体なのだ。
型ではない。結果ではない。
因果の中にあり、今混乱していることを真摯に受け止めて、そこから祈りを正していく。
何時からでもどこからでも順に対応していけるのが教えに生きるということである。
ありがとう。
すみません。
言葉はこの二つで十分だ。
あとは感情の濁流の中を行動で示していく。
信じるということはウェイトトレーニングと似ているところがある。
忍辱行は筋肉痛のようなものかもしれない。
トレーニーがそれを楽しむように行者は忍辱行に感謝する。
教養として教えを観察してもそれは外国旅行で街並みを眺めてきたというようなものである。
どれだけ教えを研究しようとも自分で選んだ一軒の家に入らなければ、信じるということは分からない。
そして、そこからがスタートなのである。
安易に万教帰一などと言ってはいけないのだ。
多くの人がここを甘く見積もって誤解しているように感じる。
武漢コロナが再流行し始めているが、霊性という観点からは恐れることは何もない。
もし感染して後遺症が残ったとしても、肉体は傷つくが、正しい祈りがあれば、霊的には必ず乗り越えられるし乗り越えていかねばいけない。
肉体を守りたいならば戒を持していく。
なんのために戒を持するのか。
それは後悔しないためである。その一点に尽きるだろう。
凡人はそうそう深い祈りには到達できない。
何度も何度も教えを忘れ浮薄な失敗をするものだ。
戒を持していくように努力さえすれば、せめて人間ではいられるだろう。
チャンスも巡って来る。
教えはシンプルであるがゆえに厳しい。
祈り一つであるが実際には修行が必要である。
病気になれば祈りも難しくなる。
しかし、そこを愚痴にせずに感謝にしていくことが疑心を抱かない秘訣だと私は思っている。
何事が起きても信心をもって順に対応していきたいものである。
日々が聖戦である。