最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

混然一体となっていく

今年の真夏のランニングは自分の限界を超えたといってよいと思っている。

体の出すサインを見極めることができたので、休息をとることもトレーニングのうちとして伸びやかに楽しんでいきたい。

やり過ぎると確かに血尿がでる(笑。

全力と無理とは違うのである。

しかしその違いを知ることは容易なことではない。

 

信心と繋がる精神というのはエネルギーの問題だ。

バディ、マインド、スピリットといった場合、スピリットはエネルギーの問題として整理した方が理に適う。

バディとは肉体だけでなく広く身の回りの物質の問題と置き換えてもよいだろう。

マインドとは心の在り様を含むバディとスピリットにまたがる知性である。

理屈を組む役割はマインドであるが、それがバディやスピリットを殺していないかよくよく反省しながら前進することが大切だと思う。

過去記事にも書いた記憶があるが、学問は生に奉仕するものだけ援用していけばいい。

学問には拠って立つものによっては危うい部分もある。

 

朝夕の読経でマインドを確認すると同時にスピリットを開放する。

解放されたスピリットとそれを整序したマインドを介してバディを展開するのである。

こうすることで各方面が調和し法灯明自灯明の基礎的な動きになっていく。

人によってその動きは異なり個性も生じてくるだろう。

 

こうしてみると、ただ体を鍛えるだけ、ただ読経をするだけ、ただ知性を磨くだけ、ではダメだということが分かるはずである。

これらが実践を通して覚知し得るあるバランスをもって混然一体となったときに、一言で言えば、菩提道に乗ることができるのである。

そして、その時に我がただの我でなくなるのだ。

なぜなら自らの生が法に乗るからである。乗れば法を尊重する精神が生じ忍辱行が尊いものになる。

それ故に精進に耐えらえる自我になっていけるのである。