最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

霊的環境を甘く見てはいけない

自灯明、法灯明といったとしても、己の置かれている霊的環境はそのまま自分の姿である。

優しくしてくれる人があるならば、大切にせねばいけない。

冷たくしてくる人がいるならば、学ばなければいけない。

無知な人がいたとしても、侮ってはいけない。

 

そして神様の問題があるのだ。

やはり人間が道を歩むうえにおいて神様の加護は非常に大切である。

絶対に無視できない。

 

誤解を恐れず言うが、神様もひとつの存在である。

八百万の神々という場合には特にそう言える。

 

無視できないが、神様に付き従うということではない。

あくまで法を守護される神々のお働きに感謝するということである。

 

我というものがその理解を狂わせてくるのだ。

自灯明も法灯明も滅びゆく独我によって理解されると神々のお働きにすら刃を向けるようなことになっていく。

そういう理解に向かってしまう危機において、自分自身の霊的環境が貧しいと悪覚のまま生涯を終えてしまう可能性がある。

 

身近な人の悪口はグッと堪えて絶対に言わない方がいい。

そして、毎日慚愧懺悔の精神でいることが最も安全である。

もちろん、罪を犯すことを恐れるがためという精神では本道とは言い難い。

しかし、戻れるだけの徳力がないにもかかわらず大口を叩くことは自殺行為でしかないことは経験上言える。

 

謙虚な姿勢には神々のご加護がある。

人間はそもそも隙だらけである。

肉体の制約もあるから実際は微々たる行動しかできない。

神々がみているのは真摯な祈りではないだろうか。

一瞬の真心の美しさというべきだろうか。

 

神々に感謝しつつ己を鍛えていく。

結局、これが理想的である。

神々に頼るという姿勢は法の理解を間違える。

法を歩むためには神々のご加護がやはり不可欠であるという現実。

この二点はうまく調和させていかねばいけない。