最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

自分で自分を救う

最近の休日はジョグ1時間プラス草取り1時間。

ランニングウォッチに記録されるのはそのうちジョグだけである(笑。

私はスントのウォッチを使っているのであるけれども、スントの対応アプリはTSSという指標でトレーニングを管理できる。

ほとんどの人はガーミンのウォッチを使っているかもしれない。

しかし、今のスントのアプリはとても秀逸です。

さて、そんなTSSの指標も最近少し体感とずれ始めているのは、草取りの疲労分が計測されていないからである(笑。

アプリにトレーニングの強度をあげてみましょう!とアドバイスが出るのであるけれども、ノーサンキューとなってしまう(笑。

 

とはいえ、なんのためにジョグをしているのかということを改めて考えてみると、動ける体を作るためであることは間違いない。

草取りはそのひとつの成果であるから、満足してよいのだろう。

生きたといえる。

 

最近達した結論のひとつに、動かないから動けなくなるのだというものがある。

歳をとったからという理由は、真実の割合としてはかなり低い。

まだ力は残っているのにそれを自覚せずにいるだけなのだ。

それで生きたといえるだろうか。

全力を出し切るという信心の根本からみても座したままというのは結局は観念に堕する危険がある。

口先で信じるということはできる。

しかし、命を出し切ったことがない者に信じることができるだろうか。

そこに向けていくことが大切なのだ。

この体力という観点、電車も車もなく常に体力の限界域において日常生活があった時代の人々にとっては論点にすらならなかったことかもしれない。

飽食運動不足からくる心の迷い、これは現代特有の病だ。

その病にかかると、人生で苦しくなれば耐えることができずに、「人それぞれだよね」、「上から目線だよね」と開き直ってしまう。

これは自殺である。

 

この世にある様々な説を一つ一つ吟味している時間は本当はない。

一生などあっという間なのだ。

自分自身が全力を出し切る過程から学び取ったことが結局は今生の論点なのだ。

世界の平面をぼんやり眺めているような気分では現代の病にかかっている可能性がある。

おそらくいろいろ余裕がありすぎるのだ。

経済的に裕福な家庭で育つとそうなってしまっている可能性が高い。

 

他の声ではなくもっと自分の心の声に耳を傾けてやるべきだろう。

自分の本音を大切にするべきだ。

もっともっと自分を大切にしてよい。

苦しい時には自分が自分を救い出すのだ。

全力を尽くすとは自分を救うことであると言い切ってよいと私は思う。

命に感謝するとはそういうことではないだろうか。