最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

理想論と正論

このところ週6くらいのペースで草取りをしている。

草をとるということを通じた心身の鍛錬であるから続いている。

疲労を通して高ぶりを抑えるのだ。

 

平然と理想論を押し付ける人間は本当に要注意である。

商売をすれば必ず税が発生するのと同じ様に、人生も必ず苦が随伴する。

そういった苦への理解が染み込んでいない言論というのは、もはや害毒でしかない。

典型的なのは正義を振りかざし他者を痛めつける奴である。

自分に出来ないことを他者に要求する左翼に多い。

 

(もちろん、学生が理想を語るのはそれは成長過程における特権である。

しかし、大の大人が学生と一緒になって正義を振りかざすのは、悪としか言いようがない。)

 

どうしたら正論になるのか。

それはこのブログをつけ始めた時から常に意識していることである。

自分に出来ないことを言葉にしてはいけない。

言葉にしたいならばそこに向けた行動が必要である。

自分という存在からかけ離れたところに生じた願望を理想論とするならば、それは結局言葉というものを貶めることになるだろう。

 

現代社会は尽く言葉が死にかけている。

これは地球規模の問題かもしれない。

嘘ばかりのように感じられることが本当に多くなってきた。

 

正論とはガタガタしているものだ。

なぜならそれは生そのものだからだ。

うまくいく時もあれば失敗することもある。

正しくありたいという意気込みに貫かれながら、それがそのまま言葉となっていく。

葛藤は味わいである。

その味わいが友情を育む。

 

平和を目指すならば嘘をつかないことだ。

嘘をつかないとは感情をむき出しにするということではない。

正しく生きようと欲して行動し正しく傷つくということである。

「無理もない。けど頑張ってるな!」

この共感こそが平和の核心である。