最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

現実的な努力こそが最強の除霊法

時代の流れにほとんど翻弄されずに己のなすべきことに集中する人々がいる。

凡人はたいてい騒いでしまうのであるが、彼らは違う。

明日死がくると分かっていても最後まで基本を疎かにしない。

そういう胆力がある。

 

統一教会の信者のうちにはそういう胆力を発揮している者もいるはずである。

本当に惜しい人々である。

なぜ、統一教会なのかという落胆しかない。

 

統一教会の信者に言っておかねばいけない。

世の中には信者の生活を案じて寄付をちゃんと返還する教団もある。

そしてその心だけを受け取ってくれる。

あなたがたはただそういう己以外の世界を知らないだけなのだ。

 

信者の生活が破綻しそれを認識しているにも関わらずそれまでの寄付を返還しない。

これは信者のそれまでの熱意を間違いなく踏みにじっている。

教団が存亡の危機にあるわけでもない。

十分な事業を継続するための資金があるにも関わらず、信者を訴訟を提起させるまで追い込みさらに自ら法的主張を掲げて応訴する。

心変わりをした信者が訴訟を起こしただと?!

そうニュースで釈明していたが、私ははらわたが煮えくり返った。

心変わりを信者の責任にする汚らしさ!

不都合がある時は世俗の行為規範にどっぷり浸り、一方では何事もないかのように信仰上の行為規範を語る姿勢に、どこに宗教家としての資質を見出すことができるのか。

恥を知れ。

 

私はこのブログで何度も書いているが、困っている時には宗教をやってはいけない。

宗教をやっても困っていること自体は解決しないからだ。

信心信仰の本旨はそういった本能中心的な願いの解決にあるわけではない。

あくまでの生き抜く強さを滋養するためにある。

にもかかわらず、カルトは人の心の弱みにつけこんで霊的な楔を打ち込み自発的に動けば血が噴き出すようにしていく。

クズの所業である。

 

悪覚も悟りと言われるように、整理された認識をもとにした集中力は侮ることはできない強さを持つ。

山上氏と同じ様な境遇にいる人々はかなりいるだろうと想像できる。

何言っても無駄という徒労感。

どうしたら身内を脱会させることができるか。

それはもう一つしかない。

さらに整理された認識をもとに集中力を鍛えていくしかない。

偽りの利他でやせ細ってしまった身内を救えるのは、むしろ節制(断酒)を前提とした現実的で具体的な成果しかない。

特に稼ぐことはよいことである。近江の商人の考え方などは参考になるだろう。

国家試験の合格などもよい。

そして、その成果をどんどんぶつけていくことである。

それが除霊になっていく。

絶対に頭や心で勝負を挑んではいけない。

成果そのもので挑んでいくことが大切である。