最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

世界はむしろ遅れている

よくやっと日本が世界に追いついたという言い方がされることがある。

世界水準というやつである。

しかし、その世界水準は本当に優れているのだろうか。

 

ともあれ、私が感じる限りでは、世界水準に合わせることはほぼほぼスペックダウンでしかない。

理由は端的である。

自分や自分の家族、仲間しか大切にできないような本能的な文化圏で育ってきた価値基準が今世界を苛め抜いている。

アイラブマイファミリー。

ハッキリ言おう。

こんなことは当たり前なのでありいちいち他に宣言することではない。

一方、日本ではかつては滅私奉公であった。

この精神は奥深い。

この精神があるから愛する者達への情をグッと堪えて他への奉仕を優先できたのである。

日本の本音と建て前は本来このようなものなのである。

そして日本の発展の基礎はこの精神にあったといっても過言ではない。

どの国の人間よりも日本人が働けたのは日本の価値基準に力を生み出す正しさがあったからだ。

 

しかし、今はどうだろう。

日本もかなり世界水準化しているのではないだろうか。

一様に皆カッコいいことは言う。

博愛である。

しかしそれは厳格なまでに単なる建前にすぎす、本音は自分や自分の家族、仲間の益にしか興味がない。

そしてそのために行動する。

この格差社会はその証拠ともいえるだろう。

他のことは自らが勝った後のことでしかないのだ。

 

自らの不遇を嘆くだけで他を省みない者は、この世界水準に犯されている。

不遇の中でこそ正しく生きようとする者がどうみえるかでそれは分かる。

バカにみえたなら魂は死にかけている。

 

本能的な世界水準の生き方で本当に後悔しないのか。

これはその答えをそろそろ地球が出し始めているようにみえる。

人類は人類として裁かれる。

死に向けた中で正しく生きようと欲することができるか。

絶望から略奪に走るか。

どう生きても死ぬ。

しかし、正邪だけははっきりとしてくるだろう。