最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

一分一秒を大切にせよ

抽象から具体へ、具体から抽象へ。

この繰り返しであるように思う。

学んだら使ってみて、失敗したら反省して。

教えの通りに生きているか?

この問いの連続である。

人生の残り時間を考えれば、確かにあえて悪い事をしている暇などもはやない。

 

物を配るということは他者に対する貢献にはもうならない。

一次産業よりさらに基礎をなす部分が教えである。

ここをはっきりと自覚していける時代がきた。

多少鈍くてももう分かるはずだ。

何億寄付しようが、それはやはり本質ではない。

それが理解される時代になりつつある。

厳しい時代においては他者に対する貢献の核心は教えの宣布によるしかない。

そして、教えの力が発動されるためのキーは自らがその通りに生きようとしていることのみである。

 

武漢コロナにより、危機において未熟な人類がどう動くか、その一端が垣間見れた。

今後、絶望的に資源が不足するだろう。

物質に依存する者から転落していく。

また、だんまりを決め込む者も増えるだろう。

教えにより仏性を開発していく者だけがこの恐怖を乗り越えていけるのである。

転落した者にはすべてが地獄にみえるはずである。

教えの言葉も聞こえず、目に見えるものすべてが敵に見えるはずである。

世界はこうやって分かれていく。

お互いが無関係になっていく。

人は仏にも悪魔になっていけるのである。

 

学びの対象は実はとても明確である。

認識できる範囲のすべてである。

逃げ出したくなることにこそ宝が詰まっている。

見るもの聞くもの感じるものを利他行の学びとして捉えていくだけだ。

そして、言動一致が核である。

 

恐れるべきは利他行の尊さをしった時に病に倒れ寿命が尽きてしまうことである。

次いつ仏法を学べるときがくるかは分からないのである。

ともかく今からやっていくしかない。

憎しみや愛欲の囚われは今すぐ唾棄せよ。

そんなものは修行の邪魔になるだけである。