昔の仲間というものは頼もしい。
思い出は宝である。
しかし、たったひとつだけ忘れがちな弱点がある。
それは人は変わっていくということだ。
そして、友ならばその変化を認めていかねばならない。
そこには苦しみを伴うこともある。
あいつらしい。
この言葉がかつての友を傷つけることがあるかもしれない。
今を自分自身が生きてる。
この実感があれば多くの事を許していけるものだ。
開かれた可能性を楽しみにすることもできる。
仲間だからと決めつけなれ合うこともしない。
自分は一人でもよいと清々しく確信しているものだ。
今を生きている友ほど心強い存在はない。
まさに親友だ。
お互いがそれぞれに輝く星である。
智慧は何のためにあるか。
それは疑心というものを破っていくためにある。
疑心に対して優位に立つために戒定慧がある。
疑心というものはちょっとした甘さから生じてくる。
そこに打ち勝っていく。
これが日々の修行の最大の試練といってもよいかもしれない。
夢界に閉じ込めれたように昔の仲間を懐かしむことはしない方がいい。
それは疑心が作り上げた幻想でしかない。
疑心というものは様々に姿を変えてくるものだ。
時に友愛の衣すらかぶってくる。
しかし、その友愛は己の自身の怠惰の結晶でしかない。
あいつらしい。
こんな思いが友に生じたならば断ち切らねばいけないのは己の甘さであるかもしれない。
知らぬうちに大切な友を怠惰の道に引きずり込んでしまっているかもしれない。
困った時に助け合う。
これは友達の要件ではない。
苦しい時にそばにいてくれる
これも友達の要件ではない。
お互いが正しく生きる。
これが友達の要件である。