最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

泥の中の蓮の花

検察の独立性なんて認めてもよいの?

という根本的な問いには教養の問題として気付くべきだ。

ただの行政機関がどうして独立性を主張できるのか。

それは教科書的には準司法作用という公務の性質と言われている。

検察組織の対する性善説もあるかもしれない。

しかし、与党=内閣なのであるから、選挙による国民の統制が検察に及んだ方がいざという時安心なのではないか?という批判は国民主権の基本的な理解から当然あってもよさそうである。

私は検察庁法など読んだことはない。

もしかしたら立法者はそのような批判を想定して人事は原則通りに内閣にあるとしているかもしれない。

この予測が当たっていれば、検察組織の慣例など問題の核心をもっと慎重に探る必要があるだろう。

また、内閣が悪だった場合を想定して独立性の意義を再考する必要もあるだろう。

 

 

報道通りだとすると、黒川は屑だ。

検察組織の性善説は吹っ飛んだといっていいだろう。

公益の代表者が賭けマージャン。

公益の代表者であるがゆえに厚い身分保障があるというのに、それに対応した責任はないとでもいうのだろうか。

他に厳しく身内に優しい法務省検察庁だ。

上級国民と隠れた身分というのはやはりあるんだろう。

今後、検察官は賭博罪の運用をできるのだろうか。

被疑者に人として向き合えるのだろうか。

 

 

世の中がいろいろ緩んできている。

いや、もともと緩んでいたものが明るみに出てきたというべきか。

そういう見方が可能ならば進歩ではある。

ともあれ、声の上げ方が上手い人間が注目されているようにみえる。

本能と欲望を理の衣にくるんでそれらしく訴えている。

見かけだけである。

それらしさだけである。

 

横を向いて安心してよい時代ではない。

今問題になっていることのほとんどが経済的なゆとりに胡坐をかいてきたツケである。

これまではそれらしければ問題が顕在化しなかった。

しかし、貧しくなり弱さをお金でカバーできなくなってきた。

そして孤独になった者のうちとりわけ臆病な者達が今堰を切ったように騒ぎ立てているのだ。

そこはもう餓鬼界である。

 

この先は、聖典に頼り聖賢の生き方に学んでいくしかない。

道を踏み外せば違う世界に転生する。

いや、踏み外すこともあるだろうし何度も転生するだろう。

しかし、聖典だけは絶対に手放してはいけない。

苦しみを通して魂が理解を深めていくこともあるからだ。

もし餓鬼界に転生してしまったとしても決死の覚悟でせめて人間界に戻れ。

泥臭い意地を貫いていく中でもキラリと輝くものは必ず芽生えてくる。

神仏はそこをみていると私は感じている。

完璧さというものを人間的に理解してはいけない。