物質的条件を無視することは心を重視していない顕れである。
大声をあげて魂を語るにしても身の回りことをなおざりにしている者には信用がない。
すなわち、それは言葉を裏切り続けることだからだ。
しかし、マルクスのように物質的条件さえ整えばという発想ではいけない。
これもまた狂う元である。
ここから先は理屈というより人格的感化の問題に近い。
目に見えぬことを認識するためには優れた魂との触れ合いによるしかないからである。
科学が単に理屈で押し通すということならば、やはり致命的な片手落ちである。
物事をよく観察していくと、そこには心がよく現れている。
たとえば、企業家が家族的経営を語るときには、大方、そこには私利私欲による恣意的支配の相しかみえないことが多い。
心を語っていても従業員の物質的条件は劣悪である。
これは心を語る素振りをしているだけということである。
まさに悪ということになるだろう。
善に進もうとするとはまず身の回りの整理整頓が大切である。
またひとつひとつの所作も同様であろう。
酒を飲んで世を憂うというのも、仏の教えを信奉する者ならばすべきではない。
人柄のようなもので雑然と事態を丸め込んでいくのではなく、ただ真摯さのみをもって整然と物事にあたっていくことが清浄の道であると私は思う。
語る時だけ使命を帯びるということではもういけない。
裏の姿があるようならば嘘に疲れ切った大衆から恨みを買うだけであろう。
これからの時代は言葉少なでちょうどよいのかもしれない。
それよりも物質的条件を整然とさせていく根気の方が大切である。
そこに教えを開かせていくのである。