禁欲をしながら筋トレをする者はかなりいたし今もいる。
しかし、私のブログにおいてはそれを性エネルギー昇華の実践とは定義していない。
そもそも睡眠と栄養とトレーニングのバランスさえとれていれば何の問題もないからである。
それだけで十分に恋愛には苦労はしなくなるだろう。
ヒマラヤ山脈の聖者などはもちろん性エネルギー昇華の実践者であろう。
しかし、これは社会に生きる者として参考になるタイプの修行ではないし、大乗行とも違うように感じる。
社会における愛別離苦や怨憎会苦という苦しみとヒマラヤ山脈の峻烈な気候による肉体の苦しみとを私は比較するように想像する。
やはり今日の生活の中に息づいていなければいけない。
性エネルギー昇華の実践は今を捨てていく生き方ではないからだ。
あのようになれたら始めようというような生き方ではない。
今ある状態を智慧に変換し切る生き方である。
その推進力の一大候補が性エネルギーの活用ということである。
一言で言えば、このプロセスが転生出離である。
家事育児は当然、仕事も手を抜かない。
身の回りすべてを活かし切る。
ここに重点がある生活になっていく。
もちろん他の為にしその後に自らの為にするという法則に従いながらだ。
人間情だけでは貫徹できないことを知って初めて神仏に帰依することの実体的な重さが魂に響いてくる。
この重さが次第に自分自身の中心になってくると、いろいろなことが新しく理解されてくる。
神仏に生かされている身であることが分かると、人間的な完璧主義から解放されて、たとえば劣等感などは解消し、心が安定する。
一方で、厳しい環境から新しく学ぼうという意欲も自発的に湧いてくる。
神仏にしっかり帰依し不安なく生活している者が凄い人である。
多くの人が真実の見地からすればたいしたことではないことに対して称賛を送っている。
いちいち具体例をあげるまでもないだろう。
もしたいしたことではないと思えないならば、それは体験がないからである。
信心信仰に目覚めれば性エネルギーの活用は自然と必須になりその結果として節制することになる。
酒などは飲まない方が楽だからである。
不邪淫もしない方が楽だからである。
また、盗みや殺人もしない方が楽だからである。
そして、それらを前提として読経も根付きさらに励むのである。
励むことに重点があることは言うまでもないだろう。