ビジュアル英文解釈という有名な参考書がある。
私も受験時代使った伊藤和夫先生の本だ。
確かこの本だったと思うが、先生による学力の定義があった。
それは「誤りを正せる力が学力である」というものだ。
今でも心にこのワンフレーズが残っている。
そして子供にも伝えている。
教えの世界でも全く同じであろう。
思い違いを正せるか否かである。
どれだけ教学を修めようとも思い違いをしていればそれは悪覚でしかない。
ここに無駄な努力というまさに絶望があるわけだ。
だから聖賢は実践を重んじるのだと思う。
実践を通して(その難しさを実感したうえで)教学を学べば毎回違う発見がある。
この驚きに近いような発見こそが思い違いを正す元になっていく。
信じるといっても我を通すこととは違う。
むしろ我をとることが信心である。
教え一乗になっていくということである。
実際の姿として我を取る痛みを受け入れることが修行であるという面は確かにある。
鋭い指摘ほどグサッとくるからだ。
やっているのにやっていないと言われれば多くの人は腹を立てると思うけれども、これが最も戒められるのが教えの世界である。
その腹立ちの克服が最初の難所で鋭い指摘を歓べるようになってくると教えに生きだした証しといえるかもしれない。
ボディビルダーは筋トレのあとの筋肉痛で安心するときくが、それに少し似通ったところがあるかもしれない。
お布施といえば献金という人もいるし、教えの生きるといえば洗脳という人もいる。
しかし、信じるという心の作用を教えに基づいて鍛えると想像以上の活力が生まれてくるのは事実である。
通常、はじめのうちは信じられない。
しかし、少しづつ教えを学んでいくうちに心がタフになってくる。
タフになった心でみる世界はまた違うのである。
修行の進んだ人は「自分の所に功徳は残らなくてもいい」とすら言う。
この境地は愚かだろうか。
魂を正しくタフに鍛え上げていく。
これが信心の実相であると今の私は感じている。
時々、深く静かな祈りを楽しむこともあるけれども、無常や空という言葉が示す通り怠らず励むことが本義である。
特に混迷していくこれからの時代においては必死の精進という形容が相応しくなっていくのかもしれない。
殉死する者もあらわれるだろう。
しかし、欲楽のままを肯定する本音に偽りの衣をかぶせるが如き合理主義の精神では人類はおろか地球も滅びるだろう。
抜本的に世界を変えたいならば教えに立つ以外にはないところまで来ているのではないだろうか。
科学一辺倒で物事を語る時代は終わりだ。
思い違いを正した心で物事をみていかねば未来はもうない。