最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

理論に頼る者がダメになっていく根本的な原因

アメリカ民主党の演説には実がない。

政治の場で共感だの相手の立場に立つだの耳当たりのよいことを言うのはやはり嘘である。

民主主義の根幹は猜疑である。

決して信頼による主義ではないということである。

もちろんこの猜疑の先にあるのは腐敗する可能性を常に持つ政府である。

政治は現実を語るしかないのだ。

これに対してなぜ?と問うのは子供のすることである。

論理の城に籠る己を恥ずべきであろう。

その意味で共和党の方に分がある。

 

耳触りの良い事だけを平気で言う人間は要注意であることが多い。

誰しも悪い人にはなりたくないから、人情として理解せねばいけないこともあるけれども、そういう理想的な言葉にはたいていの場合ほとんど意味はない。

 

意味がある言葉というのは、生活の様々な実践の中で様々押し戻された際の摩擦を如実に語る言葉だろう。

一言で言えば体験談である。

体験談はとても有意義である。

保守の精神は様々な国民のいわば体験談の集積による。

理論ではない。

 

これはスピリチュアルの世界でも似たようなところはある。

凡夫は体験談によって人々に貢献するしかない。

仏典を代読したとしてもその言葉はその人との関係では生きてはいない。

理想的な言葉を語ること自体は魂の成長とは全く関係ないことである。

誤解を恐れずに言えば、秘めた聖なる信念が厳然と存在するならば、どんな言葉を使おうが体験の重さは相手には伝わるものだ。

 

話を政治に戻す。

左翼方面のリベラル諸君の間違いは物事の射程をわきまえずにすべてを論証に頼るところにある。

だから論証(仕事)さえできれば不倫はOKという妙な結論になるのだ。

世間から彼らが世間知らずのバカ者と思われることはしっかりとした理由があって、言葉の使い方を間違っているということである。

皆にかっこいいことを言って結局誰かを切り捨てる。

この状況をおかしいと思えない限り、左翼は根本的に統治者としての適格がないのである。

切り捨てることが政治なのだからそれを踏まえて言葉を使わなければいけないのだ。