最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

特権に安住すれば友を失う時代

いわゆる公務員が国民に投げかける言葉である。

国地方はもはや問わない。

大臣だろうが政治家だろうが行政公務員だろうが同じである。

テレビから聞こえる国民に対する呼びかけがあまりにも虚しすぎる。

その理由はどこにあるのだろうか。

それは血税で地位や生活が守られているにもかかわらず嘘や誤魔化し汚職が絶えないからだ。

公務員が優秀な人材であると考える人は昭和の頃と比べると激減している。

酷い公務員になると権力を盾にまさに態度だけがでかくなるのだ。

法を執行する側にいるうちに何か特権意識のような芽生え魂が脆弱になっていくのだろう。

 

そのような構造は自陣でも起きていることを忘れてはいけない。 

かつての仏教教団も大衆から年貢を取り立てる権限があり経済的基盤があったがゆえに堕落したのである。

つまるところ、特権階級という権威に安住できたが故に言葉だけの教えでも誤魔化せたのである。

これは公務員の問題より大きな罪を作っているといっても過言ではないだろう。

 

これからの時代は言動と行動が一致せねば権威たるものは絶対に生じない。

全く余裕はない。

権威は社会的分業の要素であるからこれは必要な存在である。

権威がなければ社会は崩壊するしかない。

使命を帯びた人には社会存続ための責任がある。

 

いい言葉に酔ってやる気を出すだけではもはや何もしていないのと同じなのだ。

奔放にやってきた人類はここまで追い詰められてしまっている。

権威不在の個人主義はエゴの猛威をまき散らし物質世界まで破壊しようとしている。

今必要されているのは、たとえば尾畠春夫氏のような言動一致の哲人である。

権威のとして存在し得る者が必要なのである。

 

行動を軸にしていく時、それは一定程度必ず肉体に現れる。

まさに足元に出る。

そういう観点からすると、不摂生による肥満などは生き方について嘘を自白しているようなものかもしれない。

それは極論かもしれないが、筋の方向としては否定できない。

肉体労働者の鍛え上げられた嘘のない肉体を目標にすべきだろう。

ともあれ、言葉は己の行動と歩を共にしていくことが大切である。

身口意を一体として整えていく。

それは決定的な権威を生じさせる。

権威こそ今この時代に最も必要とされているものだと私は考えている。