それは何より神仏と接していくことだ。定。
条件をつけない。
悪念や疑念というものは、その定による智慧で克服していく。
戒というのは、定のためにある。
戒は身の寂静を守る。
単なる禁欲ではないのだ。
継続とは三昧のことだ。
単なる我慢ではない。
空の先にある妙有に至るには、敬愛できる師を持つといい。
師を通して神仏に接していくルートが最も安全かもしれない。
(ただし、このブログでは宗教宗派は問わない。)
いずれにせよ、優先順位をつけねばいけない。
自分が安全圏に入ってから他のためにというのでは、永遠に神仏に接することはできない。
不幸ならば不幸のままでよいからまず他の幸福のために祈ってみよう。
そのあとに自分のことをする。(これも手を抜いてはいけない。)
どれだけ小さくてもよいから感謝の気持ちが芽生えたら、そこが足場だ。
そこを死守する。
それが疑心を破り必ず道になっていく。
自らの心が整然としてくるのが分かるようになるだろう。