戒定慧は師について行う。
結局、師を間違えないことが最も重要なことである。
法流血脈に繋がれた優れた師の弟子となることだ。
これだけはこのブログの範疇を超える。
まず自らの家の宗派において先祖供養をしながら道を見出すのがよい。
信心信仰の道においては我流は全く無意味である。
自分で勝手に経典を買い求めて読んだとしても霊的な変革にはまず耐えられない。
仏法僧なのだ。
この三つが揃って初めて変革の道を歩めるのである。
文字にされたところよりも口伝が尊いことがある。
ここもまた我流では絶対に味わえないところである。
宗教の修行の厳しさは常に温かさの中にある。
ブログで表現できるものではないが、ただ、そういう世界に生きる者のブログ自体がまずないので、そういう線で参考にしていただけるだろうと思う。
また信心信仰とは各自独自の工夫でもあり、ただ師匠に引き込まれていくだけというわけではないので、私が救われたところの証の部分については自由に書いている。
布教することが大乗利他行の本旨であるが、そのためには戒律を守ることは前提である。
だいたいでいいということは霊的にみれば絶対ないわけであって、ここを素通りする人は仏法中の仇である。
酒や異性についてだらしない者が仏法を語れば嘘をまき散らすことになる。
悪い事をしてはいけないのである。
断酒、そして性については性エネルギー昇華の実践こそが工夫である。
仏法を扱うということの実際は原子力発電所を運営するのとほとんど変わりないかもしれない。
実際法要はよく修行された方達によって慎重に厳格に行われている。
私も初心の頃はこれが分かっているようで分かっていなかった。
まだ不十分ではあるが理解しかけてきたのは読経修行を欠かさず行うことができるようになってからだ。
さらに真剣に修行したいという思いが強くなってきている。
宗派や立場は違えど、一緒に精進していきましょう。