最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

空、無相、無願、これが同時にある祈り

世界には暗雲が垂れ込めている。

これが現状だろう。

それを否定する必要はない。

霊的な清々しさはもはや乏しいのだ。

しかし、そのうちにあってそれに縛られずにゆく道があるはずなのだ。

このブログではその道を歩む。

 

水と命を支える食事さえあれば活力を発揮する。

これを可能にするのが性エネルギー昇華である。

水と命を支える食事があるうちは貧しいなどとは言ってはいけないのだ。

命を発揮できていないことを恥ずべきである。

この点を非常に具体的な形で示してくれたのが尾畠春夫さんであろう。

 

性エネルギー昇華の実践で霊性の優位を保ちつつ、知性と肉体を磨く。

この過程で真に必要なものはなんだろうか。

財産が必要だろうか。

社会的地位が必要だろうか。

異性が必要だろうか。

実践を重ねる者だけがその本当の外延をしる。

 

自らの命に頼り切ることをしなかった者に魂の成長は見込めない。

常に何かに頼れる状態にあった者は、不幸である。

そういう者は神仏にすらすがり頼みごとをするだろう。

しかし、それは信仰でもなんでもないのだ。

己の命ひとつに頼り切る。

外にある物や関係の依存を断つことから魂の成長ははじまるのだ。

 

魂の成長は己との約束をひとつひとつ守っていくことに尽きる。

それが道になり仏性へと繋がっていく。

実践なき者のスピリチュアルなど恐れるに足りない。

己と実践を通して向き合った者の信念はシームレスであり全く隙が生じないからだ。

まさに攻防一体の戦陣である。

 

このブログでは不飲酒戒を第一にしているが、それは最も現実的に実践可能な項目であるからだ。

そして、朝と夕の読経とその延長にある掃除片付けである。

性エネルギー昇華の実践は、八斎戒を応用して期日を決めて取り組むのがよいだろう。

不飲酒戒と読経の徹底で堅固になっていく。

 

世界がどうなろうが、自分の道を歩むのだ。

清浄であるか否かは世界がどうであろうと自分自身が決めていることである。