気付けば朝と夕の読経修行は10年を超えたかもしれない。
一日足りとて休んでいない。
もう年数を数えていないから記憶がややあやしいが(笑。
とはいえ、神々について思うことがある。
読経は、どんなに心が荒んだ時も行った。
そんなときは神々に対してすら自我は暴れ逆らっていた。
このブログ中にもそんな猛々しい自我が見え隠れしているだろう。
しかし、理屈抜きで貫いてきた。
その事実だけは一貫している。
私はこれを零式と名付ける。
神々は頼もしい。
やはり、という言葉をつけざるを得ない。
助けてもらっているという気持ちはどうしても生じてくる。
温かくて涙が出そうになることもある。
また、組織された霊団のなかに自分があることを思わざるを得ない。
覚えているだろうか。
このブログでも何度も書いたが、葛西りまちゃんや船戸結愛ちゃんは今でも私と共にある。
おそらく世界で彼女達を毎日思い出している者は私しかいないだろう。
一条の光のような祈りは観念からは生じない。
どのみちこれからも感情は猛こともある。
心とはそういうものだからだ。
ゆえに心に生じる観念を観念で定めることはできない。
観念はただ実践により定める。
脳で動かすのではない。
習慣の勢力をもって動かすのだ。
脳を聖なる習慣の支配下におかねばいけない。
この指摘もこのブログでは強調したい。
脳を己の支配下におく。
脳は他の臓器と同じである。
過大評価してはいけない。
脳を黙らせるべきとは黙らせねばいけない。
冷水をかぶった時の如く。
日々の実践から則差し込んでいく。
これを理屈抜きの性エネルギー昇華の実践の零式としたい。