最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

紙一重の差にすべてをかける

日々の鍛錬。

これはもう巨悪ですら常識としているように感じる。

自分の利益の事しか考えないような人々こそむしろ鍛錬を怠らない。

酒も飲まないだろう。

マインドフルネスだってしている。

性エネルギー昇華だってしているだろう。

どうも騙されてきてしまったのは、ちょっとだらしないくらいの人のほうが人情味があるといった思い込みである。

これは嘘であると私は確信している。

端正さには人格が映る。

だらしない者に息の長い人情などあるはずがない。

しかし、先の話に戻すと、巨悪こそ形式を重んじきちんとしたスーツをまとっていたりするものだ。

みかけの端正さではとにかく隙はない。

そうなると私の説には矛盾があるようにみえる。

では、矛盾がないとすれば、その差は何か。

おそらくそれは読経の有無である。

つまり定に何を置いているかである。

結局、肉体の目をもって端正さをはかることには限界がある。

最後は霊的な迫力を追える感性という目をもっていくしかないということである。

正しい定には正しい霊性が宿る。

巨悪を打ち破っていくためにはその霊性に神々の加護が必要になってくる。

誤った定はすべて地に属し神々が加護するところとはならない。

神々の加護を得やすい自我に調整していくことが定であると言い換えてもよいのかもしれない。

ともかく、手を抜けば奴隷になるしかない時代である。

日々の鍛錬が重要だ。

どんな心境であっても淡々と継続していくことが正気を保つ要となる。