最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

都市にある修行者の最前線

如来は地獄に入るとも苦想を生ぜずという。

なるほどと思うことは、瞑想の核心にあるのかもしれない。

閃きのような大きな前進があった。

 

ダッシュのような大きな動作と呼吸のような小さな動作。

これは瞑想の両輪である。

そのことが体験を通して少しずつ分かってきた。

やはり体験なくして理解なしだ。

そして培ってきたことと結ばれてくる。

戒定は不即不離でありその実践が善因であり様々な困難という縁を得て智慧が輝く。

この世にある意味は魂の成長のためである。

この立て付けを絶対に忘れてはいけない。

そして困難がなければ光らないのだ。

なるほどと思う。

 

智慧は瞑想の核心に安らぎとして存在している。

様々な事柄はただ過ぎ去っていくものでしかない。

それを認識して手放し己に帰る。

その繰り返しを呼吸と共にするなかで智慧は磨かれていく。

とらわれない境地へ。

 

肉体の安楽というものは必ず詰む。

詰むと分かっているからこそ靈性(この字が正しいとのこと)に軸足を移しつつ最後の試練に向けていく。

私の今生はきついものだったと振り返ることになるに違いない(笑。

恥をかいた量だけなら誰にもひけをとらないだろう。

しかし、真摯に取り組んでいくことの実質的な意義を会得して以降は、生まれ変わるための道を歩んでいる。

それでもまだ頭に血が上るということを繰りかえしてきた(笑。

今年からはそこを乗り越えてもう一つ大きくなっていきたい。

理不尽を智慧に変えていくために。

慈悲の心を学ぶために。

 

性エネルギー昇華の実践の完成までかなり近いところまできているように感じている。

全き状態になれそうな期待がある。

都市にあって家族を持ち仕事を持ちながら進む道である。

新時代を照らしていきたい。