鬼滅の刃はよく出来ている。
ほとんどの鬼の過去が切ない。
あれほどの理不尽を背負った果ての姿なのである。
確かに鬼は悪い奴である。
しかし、悪い奴に仕上げていったのは人間なのだ。
責め切れぬものがある。
凡人は理不尽に遭遇するとまず憎悪を抱く。
憎悪からすべてを許すことができなくなった姿が鬼である。
しかし、炭二郎のように理不尽を悲しみにしていける者もいる。
岐路はそのあたりにあるだろう。
あらゆるマイナスの感情の中で悲しみだけは救いがあるように感じる。
とはいえ、すべての鬼が切ないわけではない。
中には鬼舞辻無惨のような存在もある。
我欲のために我欲を貫くことに何のためらいもない。
本物の悪である。
このブログでは当初から指摘しているが、このタイプもまた性エネルギーを昇華させている。
善に囚われぬが故に凄まじい力を発揮する。
憎悪を自らの心に感じるならば、それは自らのうちに善がある証拠である。
ゆえに鬼舞辻無惨のようにはそもそもなれぬ存在である。
多くの人はこの範疇に属するだろう。
したがって、いかに憎悪から離れるかということが大切になってくる。
ほとんどの鬼が死ぬ間際に善を思い返して散っていくように、憎悪と共にあることは時を無駄に過ごすことにしかならないからだ。
ここではやはり悲しみという感情を思い出し悲しみの中から道を見出していく以外にない。
辛くて憎いというのではなく辛くて悲しいというように心をおさめていくことだ。
それはまさに必死の格闘となるに違いない。
許すことは時に死ぬことよりも難しい。
ゆえに、許せるものは間違いなく真の勇者である。
鬼舞辻無惨をどうするかという問題が残る。
まずは自らが柱になっていくべきだろう。
己の善なる個性をを最大限にまで高め自らの役割責務を全うするために生きる。
それが柱であることの最低限の資格である。
責め切れぬものを切る智慧の力である。