最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

上昇する際に議論は不要である

人権尊重の観点からすると、ギリシャ文化やルネッサンスが評価され得る。

この評価は政治的評価であることを忘れていけない。

だから一方で、キリスト教会は悪の権化のような扱いがなされているのだ。

そこでは個が尊重されていないと考えるからだ。

しかし、それが本当に暗いものであったかは当時の信仰者に聞かねば分からない。

無論、異端とされた者にとって不遇な時代であったことは間違いないが。

 

そもそも哲学は視点を人間に取り戻すために生まれた。

神の認識として語られた神話ではなく人間による科学的観察によった認識としてだ。

これが学問のベースにある。

 

しかし、現代に至っても、これだ!という確信的な認識に基づく推論を成功させた者はいない。

修辞学的な主張反論の範疇における暫定的な結論に満足せざるを得ない状況が続いている。

 

話を先に戻せば、今のところ、暫定的に人権尊重の概念が優勢を占めているというだけのことである。

人権なる主張が節操なく拡大し世界の分断や地球環境の汚染に繋がるというならば議論は再び公益的な方向に流れていくだろう。

誰も責任をとることなく人間の歴史は繰り返す。

そしてまた権力の濫用が問題になるに違いない。

 

 

前置きが長くなってしまったが、己の認識を学問の僕にしてしまうとおそらく幸せにはなれない。

学問は実生活において役に立つ程度で利用するものだ。

学問上の説を信念にしてしまうと魂は行き詰まる。

余談だが、学問が真理の探究において失敗していることは大学の現状をみれば分かるだろう。

彼らの学問の自由は人事の自治にすぎないようにみえる。

社会科学の分野は非常にあやしい。

珍妙な説がいつまで有力説として存在しているのだろうか。

採用時に思想調査のようなものがあり密教的な相承があるように思わざるを得ない。

まあともかく、大学には過剰に期待してはいけないだろう。

私も片思いの期間が長かった。

 

さて、本日の言いたいことである。

信心においては学問上におけるような議論は全く不要であるということだ。

主張するということはそもそも異論に対する挑戦を含むのだが、信心の本質は主張反論をそもそも予定していない。

すでに完成しているのだから見どころはひとつである。

その人が何を貫いているかである。

そしてはそれは目に見えて分かるものであり体を使って示されている。

しかし、その外形はあれこれ評価されることもなくただ魂は縦に伸び去っていく。

これは人としての認識だけでは追い切れないもの必ず含んでいる。

意味が分からない。

そう言って笑って去る者が8割でありこれが人間界ということである。