最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

現代では神秘主義が神々を遠ざけている

最近では真言の意味をネットで知ることが出来る。

訳すと思いのほか平凡な意味しか含まれていないことに少し驚くのではないだろうか。

 

思えば昔は経典を求めることに命がかけられていた。

秘密の教えである。

それはもう凄まじいインパクトがあったに違いないだろう。

真言の音調に込められたパワーは桁外れであったに違いない。

今よりも清らかであっただろう。

 

しかし、今ではもうその多くが秘密ではなくなっている。

もちろん口伝による様々な例外はあるだろうが、一般的にはひろく知られるところになっている。

そうなってくると感銘力とでもいうものが低下するので、真言の威力は昔ほどではないはずである。

少なくともYouTubeで覚えた音調程度では全く意味はない。

 

 

これからの時代は神秘的なものを求めない方がより神秘的なものに近づけるのではないだろうか。

これが私の体験である。

このブログを始めて以来、掃除や片付け、断酒といったごくごく基本的なことをベースラインにしているが、やはりこれで正解である。

全くぶれることがない。

人生を変革するうえでまず最初に大切なことは周囲の低級霊を整理することであるが、それは日々丹念に掃除をすれば大方すんでしまうという(宗教家にとっては)恐ろしい現実がある(笑。

そして、断酒をして己を制す部分を一つ持ち定を目指すのだ。

しばらく忍耐の時期が続くが、次第に意図せずして神々と自分の関わりのあり様がはっきりとみえてくる。

そこにあえて真言が必要だろうかと思うほどに。

智慧が諸々の神々と共にある時の頼もしさは、これは半端ないものがある。

宗派のようなものは超えるといってよいだろう。

私は最近になり日本人の総氏神様である天照大御神様の有難さを感じることができて本当に幸せを感じている。

 

神々に会いたいならば、端的に清潔でいることだと私は思う。

念に凝らして不潔になっていけばいくほど本当に尊い神々を遠ざけることになる。