最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

静の呼吸と動の呼吸

呼吸に集中する。

これには素晴らしい効果がある。

そして、呼吸にはスライディングスケールのように幅があり、イメージとして静と動がある。

静かに座ってする呼吸は静であり、激しいダッシュのような時の呼吸は動である。

 

静としての呼吸はまさにいつでも可能である。

気を丹田におくか、尾てい骨におくかその時々の体調に合わせる。

弱っている時は尾てい骨がよいように思う。

気を隠すべきときも尾てい骨がよいかもしれない。

 

しかし、静としての呼吸だけでは魔境に対処できないかもしれない。

昔、青年時代に私は瞑想中に、半跏不座をし黄金に輝く自分自身をみたことがある。

未来世の己と思ったものであるが、このイメージを得た当時、私はほとんど運動をしていなかった。

それを魔境とまでは感じていないが、今思えば、どうでもよいイメージであるともいえるかもしれない。

ただ、静の呼吸が宗教的な行と結ぶ場合、それに応じたイメージを心に刻むことにはなるので、我流で失敗する場合のほか、師匠を間違えても人生を誤ることになるだろう。

 

やはり動としての呼吸も大切である。

おそらく動の呼吸こそが己自身を保つ秘訣となってくる。

悪霊は退散するしかない。

肉体と心が混然一体となった感覚は運動時に生じる。

生のベースラインを感じながら自然に呼吸に集中していくことができる。

息をきらせると思考も黙りがちになるのだ。自己イメージも切れ切れになる。

ここが大切なのだ。

ただ己の足音だけになっていく。

 

おそらく静の呼吸よりも動の呼吸のほうが習得しやすい。

しかし、それを指摘する者はあまりいないように思う。

 

静と動の呼吸があいまって人格の磁力が安定的に生じてくる。

思考と言語も状況に合わせて整ってくる。

暴飲暴食とは縁がなくなる。

根元からすっきりしてくる幸福はぜひ味わっていきたい。