巨悪は性エネルギーを我欲に結ぶ。
そうすることでサイコパスとでもいうべき心の活力を得るのだ。
近年このタイプが急増中と感じている。
つまるところ、善も悪も実は紙一重の差しかない。
善なるものを目指す者は性エネルギーを如来我に結ぶよう精進する。
性エネルギー昇華についてのブログはたくさんあるが、欲情を満たす方向に導くものがある。
私は紙一重の差に基づきはっきりと一線を画したい。
紙一重の差を生じさせるものは間違いなく読経修行と掃除である。
掃除は公共の場におけるものならばなおよい。
ここから定と智慧の基礎を学べるだろう。
マントラや真言などを活用する者も多いだろうが、やはり経典については意味の分かるものがよいと思う。
ちなみにそもそも真言は血脈に繋がることでその功徳が生じるとされる。
また口伝を尊ぶため宗派により音調も異なる。
この点はまさに宗教である。
我流はその道の者からみれば一目瞭然というふうなのである。
したがってこのルートを進みたいならば真言宗等の門を叩かねばいけないだろう。
独学をして在家でいこうとする多くの者は、川口慧海氏の在家仏教を読むのがよいのではないだろうか。
そこには安心を求めるための経典がいくつか紹介されている。
もちろんすでに特定の宗教に所属している方は、そこで磨くことでよいだろう。
私はもう型自体にはこだわらない。
己が目指すべきことに対して率直でなければいけない。
他をどうこうしようと思えば隙が生じ自らが道を踏み外すのだ。
繰り返し訪れる苦難こそが自らを磨くものである。
疑心は破っていく対象である。
心に落とし込んでいくものこそ厳選していかねばいけない。
恨み憎しみは自らに対し隠し通せるものではない。
持戒をもって行動から常に浄めていく。
そうすると呼吸も深く整ってくるし、今によく集中できるようになってくる。
これは技術のようで技術ではない。