本尊とは、完成された己自身である。
今日の瞑想中にピタリときたことである。
書き留めておこうと思った次第である。
なるほど。
自分が向けていることは未来の己自身と過去の己自身の点の重なりであり線の重なりである。そして、すべての尊い方々と帰一していくことでもある。
自も他もない。
もっと堂々と完成された己自身に向けていけばいい。
これが如来我というものかもしれない。
今日は強烈な前進があった。
瞑想はいい。
休憩はほぼ瞑想をして回復をしていこうと思い始めている。
ついスマホをみてしまいがちであるが、この習慣は破れる気配をみせつつある。
座してする瞑想とは何だろうか。
おそらくそれは回復という言葉が一番しっくりくる。
安心して取り組めるところがいい。
条件は呼吸ひとつなのだから。