最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

繊細な者にとっての先祖供養

以下、繊細な人(ハイセンシティブパーソン)を前提とする。

根が鈍い人は当てはまらない。

 

先祖供養とはどういうことだろうか。

これは自分や自分の子を大切にするということだろう。

自分や自分の子を大切にして生きているならば、寺の坊主による読経供養は必要ないのかもしれない。

確かに、寺の坊主がその資格に相応しい霊格を真に有している場合は有益であろうが、はっきり言って現代ではほぼ期待できない。

現代の僧侶はただの事業家でしかない。

そう思われても仕方がないほどに堕落しているようにみえる。

口先だけ立派な読経DJのようなものだ。

 

霊的に優れた先祖が望むことは、子孫の魂の向上である。

魂を向上させるためには自分自身を育んでいく必要がある。

自分を大切にするとは、自分自身を育んでいくことであるが、育むとは一面霊格を自ら穢していかないということである。

他から受ける様々なストレスを真に受けてしまいがちな人は知らぬ間に自分を穢していることが多い。

穢れとは感情の揺らぎがネガティブにぶれ続けることである。

これが沈滞の最大の原因になっていく。

 

ポイントとして知っておくべきことは、利他ということも標準で行っている人がいるということだ。

相手に合わせるように行動することを普通のこととしている人は意外に多い。

時間や約束を必ず守る人は典型である。

しかし、仏典で想定している人間像は、根が鈍い利己的な性格をもった人間であり、仏典の内容はそういう者に対して利他の本旨を説教している場合が多い。

つまり、その人間像に当てはまりにくい人も存在することに思いを致していかねばいけないということだ。

利他ということも標準で行っている人はむしろ自分を大切にせねばいけない。

自分を大切にせねば絃が張りつめ過ぎた楽器のようになってしまう。

仏典にはその配慮が欠けている節があると私は感じている。

 

先祖供養をすることはよいことだ。

自分自身を慈しみ向上を常に報告することで霊的な孤独から逃れることもできる。

では何をすればいいのか。

繊細な者の場合、自らが子孫に望むあり様をイメージしながら自らの祈りに落とし込んで仏典の本旨に即して行動していけばいい。

そして己の繊細さを束ねに束ねて行為をもって強靭に貫徹していく。

苦しみも喜びも束ねていく。

それができれば、その相は必ず他にもよい影響として波及することになる。

先祖も称賛し喜ぶに違いない。

 

注意しよう。

先祖は子孫が丸腰になることなど絶対に望んでいない。

端的に言えば、健康的な生活を送ること、これを望んでいる。

繊細な者は、勢いのある人物の大きな声に引き込まれる形で先祖供養に踏み込むのはやめた方がいい。

利他行をかすがいにされて搾取されるのがオチである。

宗教というものに頼り切った場合の弱点はここである。

利他行を盾にされたら反論は不可能なのである。

最初から断り、自分の人生に自分で責任を持つことから学び直すべきである。