最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

心から邪を狩り出す決意

不飲酒戒と読経修行は私の攻防一体の戦陣である。

そして日々の掃除も身の行として行うようにしている。

しかし、まだ足りなかったところが心から邪を狩り出す覚悟であった。

心をおさめるという言葉に出会って以来、己を愛するということの本意がやっと理解出来たところである。

意地の祈りがやっと理になってきたという実感がある。

悪いことをしませんというこの言葉は本質そのものであったのだ。

教えというのは己のために行うのである。

そこがはっきりしてはじめて利他と無我の関係も理解できる。

利他といって妄念がわいてくるのはそれは他人軸から生じる情欲による我慢に過ぎないからである。

 

心をおさめるとは情欲による自分軸からはなれることである。

それはそのまま心から邪を狩り出すことである。

そしてそれは法に拠るよることであり己を深く愛していくことである。

法に依ることに徹すれば、他からの誹謗中傷も軽々と乗り越えられるというものである。

常に心に仏法僧を念じる生活になるからである。

そう、法に依るならば必然的に仏と僧を念じることになるだろう。

 

やはり自らを整えるということが大前提である。

徹底して己の中にある邪を排除していきたいと今は思うのである。

身口意の浄めと言われるが、まさにその通りである。

つまり、それ以上に自分を大切にする手段はないということであった。

身のつつしみ、言葉のつつしみ、意味がある。

ふわふわと生活していてはいけない。