腐りたくなる時は私にも長くあったと思い出すのだ。
よくもまあ時間をドブに捨ててきたものだと。
しかし、当時には当時の理由があったはずで、それをありありと思い出しにくくなってきてはいるものの、確かにやむにやまれぬものだったはずである。
恨みや憎しみをどう発散するか。
これは真剣に向き合うべきことであろう。
私は今、子供と触れ合う時間を除けば、自分を鍛えることに全力を注いでいる。
もうこれだけである。
よくアドラーの心理学の文脈で語られることがあるが、自分の課題に集中することに尽きるように思う。
自分の課題に集中するとどういう経過を辿ることになるのか。
これは、明らかに孤独になっていく。
ただ、親友だけは残るという感じなってくる。
自分のなすべきことをなしている者とは末永く友でいられることが理解できる。
分野は違えどお互いに道を歩んでいることから共感が生じるのだろう。
ここが堕落した孤独と決定的に異なる。
嫌な奴とは距離を置く必要があるが、これを達成するための最短ルートは自分の課題だけに専念することだと私は確信に至っている。
こちらが圧倒的になってしまうと向こうからあきらめてくる。
この瞬間は是非一度は味わう必要がある。
これが許された復讐というものだ。
人間は薄っぺらい奴ほどプライドが高く、自分に都合が悪くなるとだんまりを決め込む。
そのだんまりを決め込ませるためにこちらが圧倒的になっていくわけである。
向こうは何も言わない。
ただ逃げていく。
他者のことで心が占有されている状態の異常性に気が付かねばいけない。
完全にその者に自分がジャックされているという事実のやばさに気が付かないといけない。
あいつは嫌いだ!
これをいちはやく認めて納得していくことが第一歩である。
許せないから苦しいのである。
嘘をついてはいけない。
そしてとにかく今すぐ心を立て替えて自分を鍛えることに専心していくことが大切である。
なぜなら、自分を磨き抜くこと以外に活路はないからである。
惨めになればなるほど嫌いな奴の思うつぼになっていくことがイメージできるならば、そのイメージを破壊する唯一の手段は自分を高める勇気と実践以外には何もない。
この段階で仏典など絶対に読んではいけない。
なぜなら読めないからである。
他者を許したつもりになって自分に嘘をつき通すくらいならば、自分を鍛え上げるために鬼になった方がまだましなのである。
多くの人が自分に嘘をついて時間を無駄にしている。
仏典や聖書を読んで許したつもりになっているだけで心の奥底では憎悪をたぎらせている者の多いこと。
幸せになれるはずがないのである。
圧倒的に努力する。
これが嘘をなくしていくということの実相である。
自分に嘘がなくなれば力も発揮できる。
力が発揮できれば嫌な奴のことなど徐々にそして確実に押し返していける。
魂の筋力と筋量。
マッチョイムズでよいんだ。
そこを華奢なスピリチュアルで乗り越えようとしては絶対にいけない。
カルトにはまるもとである。
お互いがんばっていきたい。
澄み渡るように清浄な戒定慧は安直な精神論ではない。