最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

自利は禁じられてはいない

自分の時間を大切にすべきである。

これはあまりにも当たり前であるのに、平和ボケが過ぎた。

 

大乗経典に誤りがあるとは思わない。

しかし、利他を強調することが現代人を追い詰めているところがある。

そう感じる。

現代人はただでさえ他を必要以上に意識して過ごしている。

ネット社会がそれに拍車をかけている。

そこにきて他を思う心が大切であると説かれる。

これは人によっては煩悩が増す。

 

カルトはそこに気付いていて利他の精神で膝を折らせて取り込むのである。

ここは覚えておくべきだろう。

それは信仰とは関係ない。

 

煩悩が増さないように訓練をすべきことがある。

たとえば、苦情を言うことが苦手な人は苦情を言うようにしたい。

反対に、苦情を平然と言える人は、言わないようにしたい。

 

要するに、自分をよく観察して中庸を心掛けよりよく生きることが充実ということなのである。

中庸とはその時その時の中心である。

そして、そういう中心の軌道にあってはじめて利他の本意が生きている。

 

自利を汚らわしいものと考えるならば、まずはそこを改めるために自利に生きることも大切であると私は思う。

優しくて思いやりが深い人はもっと自分を大切にせねばいけない。

そういう人がいたらそう薦めるべきである。

このブログを読むような人たちは、ぜひ、もっと時間を自分のために使ってよいと私は直感する。

 

明日死が訪れるとしたら何がしたいか。

それがやりたいことである。

やりたいことからやっていくべきだろう。

 

思いやりのかけている人は思いやりを持てるように進まねばいけない。

もちろんである。

ただ、思いやりのある人は、思いやりがあるとは思っていない。

この奥ゆかしさが素晴らしいのであるが、自分の感情にもっと耳を傾けて大切にしてくことが中庸の道である。

 

日々掃除と片付けをし、朝夕の読経をし、情に浮かれて酒を飲まないようにする。

この主線たる実践の取り組みさえあれば、経典を時に読み誤ったとしても必ず回復することもできるはずである。

己の命を尊いと感じることさえできずにいたら、死んだ理想を追いかけてありもしない救いを待つだけである。

他に頼ってはいけないのである。

寂しい心を振り切って、やはり自分自身に頼り切るところからはじめていかねばいけない。