利他という言葉は、法に従うということだ。
メサイアコンプレックスという言葉がある。
他人軸で行動するために自分軸を忘れてしまい心を病む事態をさすようである。
これはその通りであると私は思う。
利他というのは他人に都合よくという意味ではないからだ。
ブッダの真理の言葉感興の言葉のなかには、とにかく自分を愛せと書いてある。
このことと利他ということは世間的な発想のみでは調和できない。
すなわち、利他というのは、法に従うということである。
法に利他とあるので利他なのだ。
これは他人軸ではない。
法に従う自分を愛する行為である。
しかし、思えば、お釈迦様が生きていた時代と現代では多くが異なる。
出家に対する敬意がない点は決定的な差であろう。
すべて個人の自由という概念に収斂される。
社会で生きる者が林の中で一人で過ごすようなことは今ではいかれた趣味でしかない。
スジャータはいないのである(笑。
その意味おいて、仏の教えの本質をそのままに現代社会に活かす方法は社会に生きる個々人が己の判断と責任において導き出していく以外にない。
たとえばパワハラのようなことが起きたらどうすればいいか。
逃げ場のない関係にあるが故に利他とは何かという問題が出てくるだろう。
職場で教えを語るわけにはいかない。
難局であろう。
労働時間が物理的限界を超えているというならば契約問題として淡々と対処するべきであるし、これができないのはただの世間知らずである。
難しいのは、違法に至らない場合である。
ひとつは、鮮やかにその場から去るという方法であろう。
転職である。
しかし、それが難しい場合も多い。
その場合は、自己を制するための修行だととらえるべきだ。
言い難いことを言う勇気を養う場だととらえるべきだ。
嫌なことを言われた時にどう心を保てばよいか。
ゆらゆらと書いてきてが、多くの人がそんなことをネットで検索しているのではないだろうか。
答えはある。
それは冒頭に戻る。他人軸をやめて法を拠り所に己を愛することである。
メサイアコンプレックスに陥っていないか確認することだ。
よい人の意味を考え直そう。
利他の位置づけを法に基づかせることが秘訣である。
一瞬でも悪党に心を明け渡してはいけないと覚悟を決めることである。
法に拠ることでそれは達成されるのである。