最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

霊的優位に備えていく

子供がテストで100点をとってきてくれたり市のコンクールで賞をもらってきてくれたり、突き刺さっている疲れが癒される瞬間だ。

子供に親が救われる。

もっとがんばれるぞという気持ちにもなれる。

ありがたいと感じやすい。

 

ともあれ、人間は隙だらけであると思う。

意識の力みなどはふとした拍子に緩慢になる。

体調などは天気の移り変わりにも似てほぼ当てにならない。

そうしたときに、神々のご加護の重さを感じるのだ。

この世において定を常としていくことができるのは、神々のご加護があってこそである。

最近は子を通して教えて下さることが多い。

 

神々のご加護を感じられるようにするためには、神々のおそばにいるようにするしかない。

人間的な計らう心では神々を想うことはできないように思う。

純粋に神々に手を合わせるときに分かる。

外護を願えば遠ざかる。

 

泥水のなかで生きる魚もいれば、清流にしかすめない魚もいる。

神々は清流にしかみえられない。

ポイントはそこではないかと感じている。

 

元気があるうちは肉体優位でも困ることが少ない。

しかし、少しでも元気が衰えれば、そういうわけにはもういかない。

中心をとらえ違えるとそれがすべてに波及する。

思えば仏の教えのスタートはそこであった。

尊いと思わざるを得ない。

 

もったいないの精神はとても意味があるように感じるのだ。

これは性エネルギー昇華にも通じるのではないだろうか。

一呼吸一呼吸も最初で最後である。

この一瞬がもし根本的に価値のないことに費やされているとしたら後悔まったなしであろう。

 

ほのかに目の前がひらけたような体験はあるかと思う。

ふわっとしたしかし静かで間違えのない喜びである。

誰に対しても追い込むようなことがない喜びである。

やはり、そこに安住してこその幸福である。

 

その幸福のため、あの時にやっておいてよかったと思えることを積みさねていく。

これが徳を積むということではないだろうか。

神々が強い関心をもってくださる行為であろうと思うのだ。