最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

自らの呼吸と共に

私はまだ相変わらず走っている。

今日はもしかしたら走り納めになるかと思いつつ普段のコースを感謝の思いで踏んだ。

そのなかで思ったことを書きたい。

 

最近、いろいろな人がいろいろな未来予想を語る。

明るい未来は総じてない。

戦争、天災、食糧危機である。

おそらくどれかは本当に実現するだろう。

私もそう感じている。

 

アゲインストななかで自らの生き方を極めていかねばいけない。

自らの呼吸に集中していくしかないだろう。

呼吸こそが最寄のものだ。

意志が効く。

すべては縁によって結実していく。

そのような本質を自らの呼吸と共に覚知していく。

うまくいくかどうか。

そういうことではもうないのだ。

むしろうまくいかないことのなかから道を見出すことになっていく。

神々に助けを求める時代はもう終わった。

 

仏教という名が大切なのではないと最近思う。

大切なことは戒を持しているか否かだ。

そこを絶対的に拠り所にしていくべきだろう。

しかし、その意味だ。

このストレスの時代においてはエネルギー不足になれば濁流に押し戻されてしまうことになる。

ここから気付きを得たい。

戒を持することは苦しいことではないということであった。

むしろ真の活路である。

そう活路である。

思えば戒を持することが苦しいと感じ始めるときはたいてい緩んでしまっている。

明日があると誤信してしまっている。

これは私も経験するところである。

 

法をほぼ語らずとも戒を持している者があるならば、その者が上級であろう。

これからの時代は口先だけという状況になることが最もよくない。

それは自分の首を絞めていくことになるからだ。

自分だけは騙せないのだ。

自分を騙せば幸福に出会った時が死ぬときになる。

痛い思いは今しておいた方がいい。