貫いてきたところが己自身の集中力の核心になる。
経験上、もはやこれしかない。
貫こうとする意志に神々のご加護があるわけだが、神々が己自身の集中力の核心になることはないように感じている。
神々には感謝こそすれ頼みごとをすべき対象ではない。
山上氏の母親のような信心は、要するに、ご利益信心なのである。
つまり、教えを己の盾にしながら進む行き方である。
不安だらけの己を守るために我が子ですら教えに投げ出す行き方。
こんなことでは教団の言いなりになるわけである。
なぜ私がこのように言えるようになったのか。
それは私が読経修行や不飲酒戒を欠かすことなく守っているからである。
そして読経修行と不飲酒戒というもの真理に照らして正しい行いなのであろう。
もちろん、それがごく一部であることは承知しているわけであるが、そうであっても、私は社会で職業をもつ境遇にあるから、寺に閉じこもって世俗から離れたふりをしながら酒を飲むような僧侶風情などはもはや相手にする気も起きないのである。
貫いてきたものがあるならば慢心ではないのである。
そこがとにかく澄み切った集中力の核心になる。
それは極楽浄土と言い得るのではないだろうか。
私にこの体験があることが非常に大きい。
大袈裟でもなんでもなく何か偉大な仕事の起点たり得るものを秘めているとひしひしと感じる。
それは論ではなく端的に力のような存在であるからだ。
さて、山上氏の母親はダメな信心の典型であるからもう少し補足したい。
それは自分が不安で不安で仕方がないからである。
教えに隠れてさえいれば整然とした様を偽装できるうまみがある。
その味を覚えた者からはまってしまうのだ。
薬物依存に少し近いところがある。
非常に臆病な生き方であると私は思う。
一方の教団はそれはそれで損することがない。
だからすべて信者の意思ということにして真相を理解していながら放っておく。
そこが汚いのである。
もし宗教にはまっている者を乗り越えたいならば私のように徹底しているものを2つか3つほど持つとよい。
5年も過ぎてくるとじわりじわりと底力がこみ上げてくる。
カルト宗教家を言葉で押してもどうにもならない。
徹底してきた存在そのものが相手を映す鏡になっていくのだ。
語る必要はない。
ただ事実を列挙するだけでいい。
実がないことをそれをもって示してあげるべきだろう。
人間は自信をもって主体的に生きてこそ本当の充実を得ることができる。
神々の力を借りて己を偽装するなどもってのほかなのだ。
それこそ神々を冒涜する行き方である。