最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

霊性と三昧の境

霊性優位にいかざるを得ない時代と感じる。

肉体を必死になって鍛えることも大切であるが、それは突き詰めていくと、肉体に未練を残さないためである。

魂を取らざるを得ないときは必ずくる。

 

霊的な向上と共に人との関り方も変化する。

慢心はいけないという。

しかし、謙虚であることも中道ではない。

急に合わなくなっていくこともあると私は思う。

特に霊性を無視する者とはやはり難しいだろう。

いわゆる闡提である。

打算的な人付き合いをやめておいた方がいいのはなぜか。

それは自分に真摯さが備わってきたときに後悔するはめになるからである。

少しでも霊的向上に関心があるならば、むしろ独りでいた方がいい。

せめて言葉を慎んでおく。

独りでいるときは放逸にせず正しい習慣力の強靭化に努めるべきだ。

この一連は私の過去の大きな反省である。

 

私は三昧の境にありたい。

道を修するならば、三昧こそが大切である。

道を歩く時も、音楽を聴く時も、食事をとる時も三昧において行いたい。

人と過ごす時も自分のあり様を自分自身で規定していきたい。

24時間、祈りの中にあるようにしたい。

三昧の境にあることが、霊性を尊重する。

 

肉体本意の喜びを追求することが楽しい時代は完全に終わったと思われる。

たとえば夏は酷暑、冬は大寒波とベースレベルで肉体がこれまでになく大きくストレスにさらされる時代に入ったからである。

病や老いだけを問題にすればよいという単純な時代ではなくなった。

肉体の快不快を中心にしていけばあっという間に精神が破綻するに違いない。

肉体が不快を感じていたとしても活路を見出すためには、今のうちから霊性重視に切り替えていくべきである。