最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

自分の覚悟のルーツを思い返しさらなる向上を目指す

今日は近所の総合公園で子供とジョギングをした。

ゆっくり走りながらいろいろな話をする。

ゲームの話が多い。

うちは何度抽選に申し込んでも任天堂スイッチが当たらない。

周りのほとんどの友達はスイッチを持っているので、辛い思いもしているかもしれない。

しかし、その寂しさはいい修行になっているはずだ。

 

子供と触れ合う中で自分のルーツを思い出す。

私は偶然というか期せずして立ち合い出産となったが、はじめて我が子を抱き上げた時のことを今でも鮮明に覚えている。

あの日自分も生まれたと言って過言でないかもしれない。

こんな自分に懐いてくれるのだろうかと最初はとても不安であったけれども、オムツ替えから食事の準備、入浴と毎日コツコツと積み重ねているうちにちゃんと応えてくれるようになった。

 

あれから8年半が過ぎているが、不飲酒戒を保つことができているのも、朝夕の読経修行を一日も欠かさず続けられていることも、まだまだ未熟故に根底には父親としての意地のようなものはあるかもしれない。

子供に自分と同じような失敗だけはしてもらいたくないという気持ちである。

 

これは3年前の保育園の卒園アルバムの中にも書いたことであるが(笑、何より掃除と片付けを大事にしてもらいたい。

片付けは智慧であるから最初からうまくいくはずないが、掃除は浄めであるから今すぐできるのである。

また霊的な加護を受けるための大前提である。

だからこそ、まず掃除がきちんとできる人間になってもらいたいと常々伝えるようにしている。

そして、同時にそれは私自身のことでもあるから、その言葉に覚悟を込めるために私は毎朝読経をした後に掃除をするのである。

掃除さえできれば教えの本質を見誤ることはない。

教えは教養ではない。

このブログでも何度も書いてきている。

 

また、最近は勉強と片付けの関連を伝えようとしているがまだちょっと早いようだ。

本の目次と自分の理解の整理は一致させておくことが思考力を鍛えることに役立つということを伝えたいのだが、将来の楽しみということになるのだろうか。

 

しかし、将来は保証されていない。

今ある自分しかないのだ。

願望より正しい祈りだ。

苦しみを避けるために己の器を拡げていく精進をせずにいるようではタイムトライアルには克てないだろう。

性エネルギー昇華をせずにはいられない気持ちになってくる。

極愛一子地からの垂直上昇である。