読経修行は私の要である。
朝起きたらすぐに仏前にお水を供え、その後静かに読経する。
眠いとか集中できないとかそういうことはよくあるが、とにかく読経をすることにしている。
何か苦しいと感じる時はだいたい本能が関わっている。
肉体の安全とか心の安全とか損得の所有に関することである。
あいつに苦しめられているとか思う時、それは自らの本能的感覚に拠っている。
読経はそういうことを客観的に映してくれる。
そして教えの実践とはそうした本能を乗り越えることである。
読経が終わったらコーヒーを一杯飲むが、その後部屋の掃除にとりかかる。
これによって自らの心の闇に対処していることが多い。
具体的に掃除をすることで心を片付けるのだ。
実際、身の回りがきれいになると心もすっきりし出す。
心がすっきりするとはどういう状態か。
取り返しがつかない心の傷の2つや3つくらいは誰しも持っている。
私にだってある。
古傷の痛みはおそらく一生消えることはない。
傷は傷として受け入れることが第一歩かもしれない。
しかし、教えによれば活路を見出せるのである。
それで十分であると静かに納得するとき心に平安が訪れる。
可能な限りの努力をしさえすればいい。
ここにおいては他者との比較ではなく常に自分と御仏の関係である。
祈りとはそれのみである。
この祈りにおいて初めて仏法が思想哲学から信心信仰の世界へと移行するのである。
さて、この先に不淫戒があると私は考えている。
不邪淫戒のさらに上をいく戒である。
おそらくこれが性エネルギー昇華の本当の実践である。
チベット体操第六の解説においてこれを実習せんとする者は性的快楽を放棄すべしという趣旨のことをネット上読んだことがあるが、単刀直入にそう言い切るところは参考になる。
心をよく整えたらそれを速やかに実践に移すことが成功の秘訣であるが、その速やかさを生み出すものはやはり性エネルギーである。
確たる尊い目標は常に足元にある。
40代でこれを正しくやらなければおそらく凡夫のまま終わってしまう。
先日、コンロに続いてエアコンが壊れてしまった。
何かの示しだろう。
これから買いに行くのだが、私自身も今日からまた生まれ変わりたいと願っている。