他の先を越そうという気持ちはもうないといってもいいかもしれない。
歳を重ねると自分の身丈というものが分かってくる。
小林秀雄がある動画の中で「自分は42歳の厄年を超えた人間にしか本当のことを語らない」と言っていたが、それが最近よく分かる。
自分も振り返れば自分の身丈を受け入れることができた年齢が確かに42歳頃であった。
それ以降、自分に対しても他者に対してもほとんど嘘をつかなくなった。
他者は他者、自分は自分ということが自然なすわりをもってきたからだと思う。
凄い人をみて素直に凄いなと思えることが自分を痛めつけることもなくなった。
今考えていることは、自分の器に対して全力を尽くせたか否かである。
器を拡げるという努力もしたいが、まずは今の器に対して手を抜いていないかということである。
自分だけは騙せない。
その厳しさと対峙することが人生の強度としての充実感にも繋がっている。
毎日やると決めたことは毎日やる。
人が何と言おうと無様でも何でも這いつくばってでもやる。
そこにのみ思いを置く。
このようなスタイルになっていけたことが幸運だった。
苦しい青年時代を振り返れば、今は幸運な人生を歩めていると思っている。
最近は、毎日精一杯生きている人をみるとうれしくなる。
友情を感じる。
人それぞれおかれた環境がある。
そういう視点から見れば別々の世界に生きる者ということになる。
しかし、おかれた環境においてベストを尽くしているか否かという視点からみれば、それぞれの存在であっても感じ合うものが生じてくる。
そして感じ合うなかで世間的な評価とは違う見方で支え合える。
私はいつも思う。
あの暴れん坊将軍の人格が優れているのは彼に相応の立場があるからだ。
だから私はあの家光はそれほど凄いとは思わない。
しかし、銭形平次はどうだ。
あれは現代で言えば派遣社員のバイトリーダーみたいなものではないだろうか。
誇りを持ち難い立場であるのにも関わらず正社員に頭を下げながら世の不正に立ち向かっている。
できるだろうか?
私は本当に凄い男だと思うのである。
見本にすべきだ。
厳しい環境にあるからこそ全力を出すことが美しい。
それが自分の人生を全うすることの実相である。
世を照らす存在である。
本気になろうとする者たちを慰めてくれる。