肉体的限界というものは個人差がある。
朝方、大都会の路地では浮浪者がよく歩いているが、あの体力はどこからやってくるのだろうかと思うことがある。
ある意味においては彼らは強者である。
普通の人ならば精神的ストレスもあいまってすぐに死んでしまうのではないだろうか。
話を戻すと、私も遂に昨日、ランニング直後に血尿が出てしまった(笑。
何年か前にも長距離走をやったあとに経験があるので驚きはないが、肉体の限界の一徴表といえる症状だと思う。
ただ、すっきりするものはあるのだ。
現状において自分がどこまでやれるのかということがはっきりするからである。
そしてそこまでやりきった。
今後、肉体が本質的に今より強くなるということはない。
つまり、筋肉を除いては、今後肉体を強化できる余地はない。
とはいえ、肉体の性質を維持することは可能であるし、その肉体をよりよく活用することは可能であるから、そこに思いを絞っていくことが目標になってくる。
私の思考の理路としてはそのような筋である。
そして、やはり最後の一手は性エネルギー昇華であろう。
性的な節制は大きな体感がある。
科学的な保証などないが、生命的な直感として、なるべくやらない方がいい。
歳をとってから色恋に走るのは非常にもったいない。
私は男であるからその立場で言わせてもらうと、女性のために使う時間などもうないといってもよい。
そんなことよりも魂の錬成に時間を費やすべき時なのである。
結局、性エネルギー昇華と独身の確立は不即不離であるように考えられるのだ。
ここでいう独身の確立とは、結婚をしていないといった事実的法的な意味の事ではない。
女性に対するこれまでの関心の持ちようを改めるという意味である。
それは女性を性的対象としてでなく人として尊重するというふうに言い換えられるものである。
肉体から魂に力を移していく。
これが性エネルギー昇華のその先である。
肉体優位から霊性優位になるように準備をしていく。
これが死への準備にもなっていくはずなのである。
肉体は必ず脆く崩れる。
しかし、培った魂の力はその保存の仕方さえ間違わなければ失われることはない。
戒定慧こそがその中核になることはもはや言うまでもないが、何より大切なことはそれに則った肉体的な実際の活動である。
動かなければダメだ。
掃除片付けといったことは本当に大切である。
さて、今日は朝から勉強をしている。
20分から2時間程度を目安にほぼ毎日やっている。
文武両道。
晴耕雨読。
体知精神。
これらの言葉通りにしていくことが私の理想である。