面白おかしく喋る人がいる。
みているだけでこちらが和むような人である。
おそらく本人はそう思っているやっているわけではない。
しかし、顔の作りや表情などが意図せずしてそういう結果を生んでいるのだろう。
それは天性のものである。
だからそれはそれでよい。
しかし、あえて面白おかしく喋る必要はないと私は思っている。
人の善さのようなものを処世術に組み込まないことが楽に生きる秘訣ではないだろうか。
本当に面白い時やうれしい時に思い切り笑うだけでよい。
凡庸な人間にはある意味堅物の道しかないのだ。
そう割り切ることが大切であると私は考えている。
人気など全く不要なのだ。
私は最近論理学の勉強が中心になりつつある。
これまでの人生において勉強すれどもボヤっとした部分が多く残ってきたのは、論理的な下支えを真剣にしなかったからだと思っている。
結論と理由、そしてその導出過程をはっきりさせる。
主張と主張の関係性をはっきりさせる。
この2点をしっかり意識することで自己検証が可能になり言葉全体が整ってくるのである。
論理は時に才能を代替してくれる。
凡庸な人間は才能に頼らずにこのルートでいくべきだろう。
気の強さだけで物事を押し込んでくるような人間がいる。
中には才能をもってそうしてくる者もある。
論理的であることはそういう人々との関わり合いですら可能にする。
整った論理の硬さはダイヤモンドのそれである。
気の強さ如きで破壊できる代物ではないからである。
とはいえ、論理的であることを人生のすべてのフィールドに展開しようとしてはいけない。
もちろん論理が通じない場面もかなり多くあるからである。
その場合凡人は大人しくしているに限るだろう。
自分が目立つ必要などない。
面白い人がいればその人に拍手を送り、気の強い人がいればその人を喜ばせてあげればいい。
そして、ともかく教えに生きるのだ。
自我は張らないが如来我は張っていく。
教えをもって人と関わっていくことを目指す。
他者と自己を比べることなく教えを中心に身丈に合わせて生活するのみである。
次第に充実していく。